「俺は……やめろ、と何度も頼んだのに……」
ゲンジさんは泣きながら、歯ぎしりを始めた。
「頭に雷を落とすなんて……聞いていないぞ」
――頭に雷? まさか電気の……。
ゲンジさんがこちらへ一歩近付いてきた。私は慌てて立ち上がると、地下通路の出入り口へ向かう。早くここを出なければ。
「このクソ看護師が! 待ちやがれ!」
ゲンジさんは私を看護師と勘違いしている。私がナース服を着ているからだろう。ゲンジさんはドスドスとした足取りで私へ迫る。扉を鍵で開けようとしたが。
「あ、開かない! どうして!」
いくら鍵を回しても扉が開かない。ゲンジさんと私の距離がさらに縮まった。
――開いて! 開いてよ、扉!
涙がこぼれ落ち、全身から汗が噴き出した。背後を見遣ると、すぐそこに彼がいて、固く握りしめた拳が振り上げられた。
「電気の御礼だ! てめぇの頭をかち割ってやる!」
殴られる、と身構えたその時。
「相手を間違っているよ」
扉の向こうから、白い影がサッを私の前に飛び出して、振り下ろされた拳を受け止めた。
「ア……アップルさん」
アップルさんは、ゲンジさんの拳を払いのける。ゲンジさんはぽかんとして、彼に見入った。
「この人は看護師じゃない。心理士だ」
「なんだって?」
ゲンジさんは私へまじまじと見入った。
「ホントだ。注射打ったやつと違う。すまんかったね」
あっさりと謝られて、拍子抜けだ。
脱力感に見舞われ、床に座り込んでしまう。
先程の恐ろしさはどこへいったのか。
「あんたは……医者か? 白衣を着ているが」
「俺は医者だ。亡くなっているけどね。貴方も亡くなったんだよ」
消えていた天井の照明が再び点滅を始めた。
「うそだ、そんな馬鹿な。ちょっと眠っているあいだに……また知らない部屋に閉じ込められちまっていただけだよ。死んでなんか……ここはどこだ?」
「ここは地下。あんたが閉じ込められたのは霊安室だろ」
「なんだって?」
アップルさんは開いたままの霊安室を指差した。ゲンジさんが霊安室の前に立った瞬間、電気の点滅が止んだ。明かりに照らされた「霊安室」の看板を無言で見つめるゲンジさん。
「俺は……死んだのか」
ゲンジさんは自分の両手を見つめた。
「でも、いつ死んだんだろう? 頭に電気を流すって言われてから、びりびりして、そんで……そんで……」
――頭に電気。ECTのことだ。
Electro Convulsive Therapy. 電気けいれん療法という。精神科医の間でも「電気ショックで、本当に精神疾患は治るのか」と常に疑問は投げかけられ、現在でも意見が割れている。
「電気をやられるようになってから、忘れっぽくなってさ」
ECTの直後には、強い脱力感や、健忘症状が見られる。極めて安全な治療だと提唱する者がいる一方で、死亡事故も少なからず発生している。電気痙攣を人為的に引き起こすのだからリスクがあるのは当然だ。
――そういえば、ゲンジさんは心臓発作で亡くなったと話していたわ。
無関係ではないのではないか。循環器系ほか、その他の内臓疾患に副作用が見られた例は数え切れない。
「俺は嫌だって言ったのに、何度も……もう何回目か忘れたよ」
ゲンジさんへのインフォームドコンセントは不適切だったとみえる。医者の中には「精神疾患者に話したところで、治療内容を理解できないものも多い」と言って、説明も不十分にECTの施術を執り行う者も多いのだ。
「そうか……死んだのか……教えてくれて、ありがとう。もう頭がビリビリすることもないんだなぁ」
ゲンジさんはとぼとぼと霊安室へ戻った。開いたままの扉から、彼のむせび泣きが聞こえてきて、胸が締め付けられる。幽霊も声を上げて泣くと知った。
「行こう、吉楽」
「何か……できないの、アップルさん?」
「
「そうね。行きましょう」
私とアップルさんは地下室を出て、階段を上る。
「さっきは助けてくれてありがとう、アップルさん」
「吉楽を一人にして御免。守護霊として失格だ。ニカさんと大事な話をしていたんだよ」
――私に聞かせられない話なのかしら。また柱とか、不幸とか、怖いこと?
そういえばゲンジさんのことですっかり忘れかけていたけれど、クリーニングルームにいたおじいさんの幽霊が不気味なことを口にしていた。
「クリーニングルームにいた、おじいさんの幽霊に変なことを言われたのよ」
「変なことって?」
「若いのに可哀想にとか。まるで私に不幸がふりかかるみたいなことをね」
隣を歩くアップルさんがぴたりと止まった。
【つづく】