私はポケットから鍵を取り出すと、地下通路に続く扉を解錠する。精神科病院は、職員しか入ることのできないスペースや空間、閉鎖病棟の出入り口にオートロックがかけられている。その為職員は、全ての扉へ通じる鍵を持ち、ゴム製のリールなどで制服と結びつける。リールを用いて制服に固定させるのは、鍵を落としたり、盗まれたりしない為だ。その鍵をもし、閉鎖病棟に入院されている方が手に入れたら、どこの部屋でも自由に出入りができてしまう。
――私、地下が苦手なのよね。アップルさん、早く下りてきてくれないかしら。
地下通路に入る前に、階段をちらり。ニカさんがとっておきの情報を教えると話していたけれど、薬室長に秘密でもあるのかしら。心底くだらない。
――こういう時に守護霊がそばにいなくて、どうするのよ。
よりによって、病院で一番気味悪い地下室に行くという時に限って側にいないのでは、頼り甲斐がない。
――いけない! 私ったらアップルさんに依存しているわ。
前は彼の姿が見えていなくても、普通に一人で地下を出入りしていた。そりゃぁ怖かったけれど。霊感に目覚めて以来、地下に来ることが無かった。
私は意を決して、地下通路の扉を開いた。通路は真っ黒だったので、壁を手探りで電気を点ける。
――うわぁ、いるいる。あちこちにいるわ。
地下通路に座り込んでいる女、ひたすら壁に頭を打ち付けている男、煙のようにふわふわたちこめる何かの霊気、通路に充満しているかび臭さ。本当だったら目には見えない、聞こえなかったはずなのに。なんて陰気でまがまがしい場所だ。
廊下にずらりと並んだ個室の中で、とりわけ陰気なオーラを放つ扉があった。
――霊安室……だ。確か〝ゲンジさん〟という人が亡くなったって……。
うめき声のようなものが聞こえる。足早に通り過ぎて、クリーニングルームへ入る。
「おやぁ、誰か来たねぇ」
浴衣姿のおじいさんの幽霊が、小さな椅子にこしかけて、足をぶらぶらしていた。
「ああ、薬室の新人か」
一瞬おじいさんの方を見てしまったが、すぐに目を逸らす。聞こえないふりをしながら、抱えていた洗濯物を大きな籠に放り込んだ。
「おーい、アンタ。早いところ、この病院を出た方がいいよ~。善い人間ほど嫌な目に遭うからね。この病院には悪魔がいるのさ。でも何言っても聞こえないか。可哀想になぁ、まだ若いのに」
おじいさんの幽霊は、けらけらと声を立てて笑った。
――笑うこと? まだ若いのに可哀想って、なによ。
心配を口にしながら、不幸の見物を楽しむかのような発言だ。
「今日は死臭がとびきりキツいなぁ。早く遺体を引きとってくれたらいいのに。死んだことも分かっていないんだから」
全身が総毛立つ。
――早く、ここから出ないと。
私は足早に部屋を出た。慌てていたせいで足音が大きく地下通路に反響する。霊安室の前を通り過ぎようとした、その時だった。
「えっ、やだ、ちょっと!」
通路の電気が点滅を繰り返し、いきなり消えてしまったのだ。
ドンッと霊安室の内側から扉を叩くような大きな音がした。ここに安置されている人間について、薬室長たちが話すのを聞いたばかりだ。
「出せ! そこに誰かいるんだろう!」
力一杯怒声が響き、扉が繰り返し叩かれた。
「聞いていた話と違う! 全然違うじゃないか!」
扉の向こうでその人は急に泣きじゃくり始めた。
「痛い……頭が痛い……怖い、怖い、痛い、痛い」
――さっきのおじいさんが言った通り、自分が死んだことに気付いていないの?
彼は何を恐れているのだろう。何が彼を苦しめているのだろう。
「出せ! 出してくれ! ここから出してくれ!」
本当にそこに生きている人間が閉じ込められているのでは。脳が錯覚するほどに、その声はリアルだった。
動揺を鎮めることができず、足をもつらせた私は地下通路に激しく横転した。安置室の騒音が急にぴたりと止む。ガチャガチャとノブが激しく音を立て、キィィと蝶番が軋む。ゆっくりと扉が開き、明かりの消えた廊下に人影が出てきた。
――この人が、ゲンジさん?
がたいの大きい男だ。小麦色の肌は、伸び放題の体毛で覆われている。あきらかに腕っ節が強そうだが、目はぎょろぎょろと上下左右にせわしなく動いており、口から涎が垂れている。
男の異様な姿に声も出ない。すると彼の血走った目が、床に倒れた私を捉える。自分の霊感をさとられないようにしていたのに、私は亡者と目が合ってしまったのだ。アップルさんやニカさんとは異なり、その眼差しには悲しみと憎しみが湛えられていた。
「俺は……やめろ、と何度も頼んだのに……」
ゲンジさんは泣きながら、歯ぎしりを始めた。
【つづく】