人は一度「気に入らない」と思ったら、排他行動をとる生き物だ。
薬室長が私を気に入らない理由は複数あると見える。
このくだらない人間の心情を深掘りする時間がもったいないので、あえて一言でまとめるならば。
――たぶんこの人は、臆病なのだろうなぁ。
おそらく彼女は「希望していた職種に就けなかった心理士。馬鹿で使い勝手の良い助手」と私を見下していたかったのだろうと推測する。ところがどっこい、性悪のご高説に私が異を唱えたものだから、彼女の城であるこの薬室から排他したいと思ったのだろう。
――作業スペースが無いんですけど。
私の机に、積み木のように置かれた薬箱を見て、溜め息が漏れる。
「波久礼さんの机に置いておいて」
調剤台に置ききれないものは、私の机へ移動された。薬室長の指示によって。問屋さんが持ってきた薬も、入退院にまつわる書類も、デイケア利用者の為に作られた大量の薬袋も。
――私の机は、あなた方の物置ですかい。
しかしこの薬室では一番立場が弱いので言えない。ものを机の脇に寄せて、狭いスペースで書類整理に勤しんでいると。
「この薬、返品処理できるか聞いておいて」
薬室長が私の机にドンッと叩きつけるように置いたのは、注入性の軟膏坐剤だった。通りすがりに見た、別の薬剤師が眉を顰める。「何も言わないでくれ、同情など御免だ」と念じていると、
「死ぬまでこの薬のお世話になるって、言ってませんでしたぁ?」
なんともまぁ医療従事者として問題になりそうな発言が、その口から飛び出したのである。
「あれ? 聞いていない? 亡くなったのよ、彼」
薬室長の言葉に、訊ねた薬剤師は目を見開いた。
「ゲンジさんが? うっそー、まだ長生きすると思っていました」
「昨夜、急にね。心臓発作。ご家族の方が県外で、これから引き取りにみえるわ」
「ご遺体は今、安置室ですか? 早く葬式屋が引き取りに来たらいいのに。ゲンジさん、めっちゃ力ありましたから、遺体が動き出しそう」
「こちらから遺族に説明しなきゃいけないのよ。ほんといきなり死ぬから、迷惑だわ」
――死んだから、迷惑? なんてことを言うの。
薬室長の目は、私の机の坐剤に注がれていた。注文したばかりの薬なので「返品処理」できるはずだが……問屋に突っぱねられたら損ということだ。薬によっては一箱の損失は大きい。問屋に電話をすると、仕入れた薬を本日お届けにあがるので、担当者に事情を説明して、返品を渡して欲しいと回答があった。
「薬、返品できるって?」
「は、はい」
「そう」
薬室長は相変わらず冷たい。私が空気を読まずに減らず口をたたいたのが全ての原因だと分かってはいるけれどね。
「暑いわねー。白衣着替えようかな。波久礼さん、これ出して、新しいのとってきてくれる?」
「あ、私のも。おねがーい」
薬室長と、もう一名の薬剤師が、脱いだ白衣を私に差し出した。
「クリーニングに出しても出してもきりがないわ」
「ちゃんと洗ってんのか、分かんないですよね。給料から天引きされてるのに」
二人はロッカーから新しい白衣を出して羽織ると、そこに香水を振りまいた。
――香りに敏感なクライエントもいるのに、こんなにきついのをつけるなんて。
柔軟剤でもアレルギー反応を示す人がいると報道があったばかりだ。また調剤中に、薬に香りが移るとは考えないのだろうか。
――頭が痛くなりそう。早く出してしまおうっと。
腋臭と香水の染みついた白衣二着を抱えて、薬室を出る。医療従事者のユニフォームは業者にクリーニングを頼んでおり、汚れ物を地下の一室にまとめているのだ。
「自分の服くらい、自分で持って行けよ、と俺は思う」
「下々の者は辛いわぁ」
アップルさんと愚痴を交わしながら階段を下りていくと。
「おや、吉楽さんとアップルさん」
ニカさんと階段の踊り場ですれ違った。
「なんだか変な臭いのする白衣だねぇ。香水なんだか、汗臭いんだか分からないよ。なんでそんなもの抱えているの?」
「クリーニング屋に転業したんですよ、私」
「そっちの方が気楽かもね」
「はい、まったく。今頃薬室で私の悪口を言い合っているのかな、と思うと気が重いですけど」
「薬室でいじめられているのかい?」
「そうなんです。俺は吉楽が心配で、腹立たしくて。どうしたら懲らしめられますかね」
懲らしめる。アップルさんの発言に不穏な気配を感じた。
「アップルさん。心配してくれるのは嬉しいけど、薬室でポルターガイストなんてやめてよ。私は静かな方がいいの」
「まぁまぁ、そう言わず。吉楽に迷惑はかけないよ」
「エドワードさん、とっておきの情報を教えてあげよう。薬室長はね、実は……」
アップルさんに、ニカさんがこそこそと耳打ちを始めた。
「先、行ってるからね」
私はアップルさんを置いて、階段をさらに下った。一階を過ぎると、照明が極端に少なくなる。クリーニングルームは地下一階にあった。
「地下一階なのに、夜みたいに暗い」
冷房もかかっていないのに肌寒かった。
【つづく】