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第15話 性善説、性悪説

 最近、薬室にいる時、他の職員の風当たりが冷たい。

 数日前の〝例の面談〟が主な原因だろう。

 昼休憩後、薬室長が私を別室へ呼んだのだ。


「この前、患者さんが脱走した時、波久礼はぐれさんは手を貸さなかったそうですね」


 個室の机を挟んで、向かいに座る薬室長が、穏健ではない口調で切り出した。


「逃げ出した患者さんとすれ違ったのでしょう?」

「え、ええ……目の前を走っていかれました」

「そのあと追ってきた看護師さんが、呆然と突っ立っている貴女あなたを見かけたそうなの」


 ――呆然と突っ立っている、か。皮肉がチクチク痛いなぁ。


「すみません。あんまり驚いて、足がすくんでしまって」

「そうでしょうね。分かるわ」


 厳しい表情から一転、薬室長は生温かい眼差しで微笑をたたえた。


「この病院に勤める以上、また同じような場面に遭遇すると思うわ。今回は初めてだったから仕様がないでしょう。けれどもしも、また同じようなトラブルに遭遇したら、力を貸しなさい。看護師一人では太刀打ちできないような力を出す人もいるのよ」


 精神疾患を抱えた人が、尋常で無い力を出すことは以前から知っていた。それを目の前で見たら、患者を追いかけることなど私にはできなかった。血が苦手な私には、とても。


貴女あなたは若いのだから。助け合わなくてはね」


 それでもしも私が怪我をしたら、この人はなんというのだろう。看護師でもない私が手助けをして、患者を止めることができたら、名誉の負傷と言うのか。私に労災は適用されるのか。


波久礼はぐれさんは、人間の根本はなんだと思う? 善だと思う? 悪だと思う?」


 この状況で意地の悪い質問をする人だ。私が返答に困っていると、薬室長の口角が吊り上がった。


「悪よ。人の根本は悪」


 ためらいなく彼女が断言したことは衝撃だった。


「この病院には人を傷付けて収容された方もいることを忘れないで。元麻薬常習犯もいるし、反社会的組織にいた人も。犯罪者にぜんの心があるというのは綺麗事よ。人の心の基本は悪だと考えないと、貴女が痛い目を見ることになるわ」


 ――薬室長は、はなっから誰も信用していないのだわ。


 信じるものが一つもないこの人は、底の深い絶望を抱えているのだろう。怒りよりも哀れみの方が強い。


「貴女は、人の善性を否定するのか」


 私の背後にいた守護霊アップルさんは、不快感をあらわに疑問を投じた。


「貴女は自分が悪魔だと言っているようなものだ。貴女の考えはそうであったとしても、他者の吉楽までも悪意のかたまりと肯定するのは、あまりに無学で失礼だ」


 私を擁護ようごするアップルさんの言葉に救われた。亡くなっている彼の方が、生きている薬室長よりもはるかに人間らしく、言葉に温もりがある。


「波久礼さん? 私の話、ちゃんと聞いている?」


 私が黙っているので、薬室長が訊ねた。


「性善説、性悪説について考えていました。根本が悪ならば、治療によって善となる。薬室長はそのように解釈されているのですね」


「そうよ。流石さすが、心理学を履修されただけはあるわね」


 ――履修されただけはある。見下されているらしい、私は。


「私も貴女あなたも、悪から始まって、善い方に向かう為に努力をする。それが人間よ。根本は悪だと思うと、心が軽くなるでしょう?」


 人の根本が善だと肯定して生きることを、薬師長は苦痛に感じているようだ。守護霊アップルさんから陰険なオーラを感じる。薬室長に怒りを感じているようだ。


「では、生まれたばかりの赤ん坊も、悪なのでしょうか」


 私の問いに、薬室長の顔色が変わった。


「私は、はじまりが悪であったとは思えません。善性ぜんせいを肯定して、悪の存在も認めます。周囲が全員悪人に見える方がおそろしく、悲しい世界だと思います」


 あの時、憎まれ口を叩かなければ、今のように肩身の狭い思いをすることは無かっただろう。


 ――まぁ、言ってしまったものは仕様が無い。


 善と悪については人それぞれに数多の考えがある。私には私の信条があって、それを肯定したことに悔いは無いが、以前から私を嫌っていた薬室長は更に冷たい態度をとるようになった。


【つづく】


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