目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第12話 幼なじみの医者と看護師

 露濡つゆぬれた草木と林檎の香りがする。

 夢の中で目を開けると、白いレースが風に揺れていて、窓の向こうに空色の花邑はなむらがあった。窓を中心に、蔓草模様つるくさもようの壁紙が広がり、一つの部屋が描かれていく。猫のように四つ足のアンティークな飾り棚、大きな振り子を左右に揺らす柱時計、背表紙の破けた古書の群れ、どこを見ても懐かしい。


 部屋を温かく満たす黄昏色たそがれいろの陽光に心洗われていると、いつの間にか窓辺に、私のよく知る男性がたたずんでいた。


「気分はどう?」


 ――アップルさん?


 彼は、白シャツに紺色のベストを重ね、黒いズボンを穿いていた。


「大丈夫です、兄さん。心配をかけてごめんなさい」


 自分の口からすらすらと出た言葉に驚く。私の中に別の私がいるような感覚だ。それとも夢の中の〝違う私〟に〝今の私〟がお邪魔しているのかもしれない。


 ――兄さんと言った? アップルさんと私は前世、恋人同士じゃなかったの?


「わざわざ、私の住まいまで来ていただいて……」

「堅苦しいのはナシで。幼なじみが悪いと聞いたら飛んでくるさ」


 ――幼なじみ。なるほどね。兄さんと呼んでいるということは、少し年が離れているのかしら。


「兄さんは、お仕事だったのではないですか」


 アップルさんは「いいや」と首を横に振った。


「休みだよ。晴れているから君をピクニックに誘おうと思ったら、風邪で寝込んでいるというじゃないか。心配して来たんだ。それにしても……ここは良い住まいだね。花が満開で景色も綺麗だし、管理人さんも良い人そうで安心した。――そうだ、林檎を切るよ」


「いえ、私が……」


「いいから。台所を借りるよ」


 彼は台所に立つと、林檎の皮をむき始める。切った林檎を皿にもりつけると、フォークを添えて私の前にコトンと置いた。御礼を言って一口味わう。シャリッと涼しげな音がして、芳醇ほうじゅんで甘い香りが口の中に広がった。


「とっても美味しいです」

「良かった。あんまり無理をしてはダメだよ」

「無理なんて、そんな。このくらいでへばってしまって情けないです。兄さんのお役に立ちたい一心いっしんなのに、ままならなくて……」

「君はもう十分に頑張っているよ」

「いいえ。私はまだ血が苦手ですし……看護師なのに」

「君が血を苦手なのは、昔の大怪我おおけがが原因だろう」


 ――大怪我おおけが


 脳裏に浮かんだのは、子供の手と血だまりだった。


 ――前世の私の〝記憶〟だ。


 身体が急に強ばり、冷たいものが背筋に押し当てられたような感覚に見舞われる。


 ――これは……鉄の塊だわ。背中に? 押しつぶされたような……。


 前世の幼い自分は、ひょっとすると事故か何かで、倒れた鉄板の下敷きになったのではないか。


「あの時……兄さんが助けてくれなかったら、どうなっていたことか。兄さんのお役に立ちたくて、私は看護師になったのですもの」

「それは……本当に君のしたいこと?」

「本当に、とは?」

「看護師になってからの君は、どんどん元気が無くなっている。医者になった俺の背中を追いかけてくれたのは嬉しいけど」


 テーブルの向かいから、アップルさんは私の頭をポンポンと撫でた。


「曇りの無い眼差しで、世界の綺麗なものを探していた君が、哀しげに物思いに耽っているのを見ると、昔のように笑って欲しいと思っただけ」


 私は無理に笑って見せた。すると彼は苦笑いして、私の鼻の頭をちょっとつまんだ。


「もうっ、兄さんったら」


 茶目っ気たっぷりに、アップルさんはカラカラと声を立てた。


「そういえば兄さんが笑っているのを久しぶりに見ました」

「そうかい?」

「病院の兄さんは、私が知っている兄さんとは別人ですもの」

「……」


 アップルさんは急に黙った。


「あっ、真面目でカッコイイと言いたかっただけなんです」

「えっ。そうなのかい?」

「そうですよ。兄さんは私だけでなく、たくさんの方の命の恩人なのだな、って」

「医者の職務だからね。けれど施術者が誰かなんて、ほとんどの人は忘れてしまうよ。何年経っても、俺をおぼえてくれるのは君だけ」


 彼の水色の瞳に見つめられ〝私〟の鼓動がとくとくと早まった。


「ところで、君はいつまで、俺を〝兄さん〟と呼ぶんだい?」

「私ったら、つい……。病院では〝先生〟と呼んでいますけど」

「〝先生〟も〝兄さん〟も嫌だよ」

「じゃあ、なんと呼べば良いのですか?」

「名前で呼んでほしい」


 アップルさんは林檎を一切れフォークでさすと、私の前に差し出した。


「もう俺は、君をいもうとのようには思っていないのだから。幼なじみだからではなく、本当に尊い存在だよ」


 頬が熱を帯びる。アップルさんの顔も真っ赤だった。


「食べないの?」

「い……いただきます」


 フォークごと林檎を受け取ろうとした。けれどアップルさんがフォークを離そうとしない。彼は林檎の先っぽを、私の唇にちょんと当てた。


「病み上がりなんだから甘えて」


 私は観念して、林檎をかじった。

 優しくて甘い果汁が口の中で広がる。

 こみあげる愛情と感謝が、病み上がりの私を恋の熱でだらせた。


【つづく】



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?