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第11話 脱走者の血飛沫

 土日勤務は憂鬱ゆううつだけれど、病棟の看護師さんたちに比べれば、薬室は楽なものだ。病棟から調剤の要請があれば、薬剤師とともに対応するが、頻繁ひんぱんではないので、平日に手が回らなかった書類の整理に専念できる。


「波久礼さん、辛いと思ったら言わなきゃダメよ」


 土曜日の午前、休日出勤の薬剤師が心配そうに声をかけてきた。


「私たちは交替で休日出勤なのに、貴女あなただけが毎週毎週入っているじゃない。休み、ちゃんと取りなさいよ?」


「は、はい。そうですね……」


 妊婦が「悪阻つわりで苦しい」と言っているのに、新人が「休みをください」とは口にできなかった。


「あ。この頓服薬とんぷくやく、三階の開放病棟に持って行ってくれる?」

「分かりました」


 休めと言いつつ、動かない薬剤師である。口先だけの慰めにはうんざりだ。「動かない」理由は分かっているのだ。


「あっつーい……」


 薬室を一歩出たら、廊下はサウナである。三階の開放病棟へ行く。入院されている方々のフリースペースにはテレビがついていたが、扇風機が一台回っているだけだ。暑そうに全員汗を拭っており、体臭が充満している。共有スペースは「節電」の名の下にクーラーをかけないのだ。


 ところがナースセンターへ行くと、扉一枚隔てて季節が早送り、冬のようにクーラーがかかっている。


「ああ、頼んでいた頓服薬とんぷくやくね、どうも」


 看護師は頓服薬を、トレーに放り込んだ。

 なんというか所作がいちいち荒っぽい。


「看護師さん、看護師さん」


 ナースセンターの小さな窓から声が聞こえた。無精髭の生えたおじいさんが窓の向こうからじっとこちらをうかがっている。


「なんですか、はたさん?」


 頓服薬を受け取った看護師が淡泊に訊ねる。


「十円ください。ガムが買いたいんです」

「先生に聞いておきますね」

「今ください」

「お薬の時間があるから、今はダメですよ」


 あしらい方が慣れていた。畠さんと呼ばれたおじいさんは、しょんぼりとして窓の向こう側から去る。私がじっと見ていると、看護師は苦笑いしてこう言った。


「私のことを、冷たいって思った?」

「い、いいえ、そんなことは!」

「十円あれば、一階の売店でガムが買えるでしょ。畠さんはアレが好きなのよ。ご家族の方からお小遣いを預かっているけど、食べたガムを病棟のあちこちにくっつけていくから渡さないの」


 そういえば病棟で何度か、ガムを踏みそうになったことがある。


「私、畠さんは閉鎖病棟に戻せばいいのにって思うのよ。首吊り未遂の次は、大量のガムを飲み込んで喉をつまらせそう」


「いやいや、十円玉を貯めておいて、一気に飲み込むかもよ~」


 別の看護師が笑いながら声をかけた。


 ――心配しているのか、そうじゃないのか分からないや。


 なんとも言えない複雑な気持ちをかかえて、ナースセンターを後にする。土曜日の病院の廊下は、不気味なくらい静かだった。フリースペースの電気は消えており、テレビの前にいた人たちもいつの間にやらいなくなっている。


 ――まるで幽霊を見たみたい。ほんの一瞬で全員いなくなったの?


 廊下に私だけの足音が響いていく。


「工事の音も聞こえないと、静か過ぎて逆に不気味ね」

「今日は土曜日だからな」

「アップルさんが隣にいて良かったわ」

「ね? だから一緒にいた方がいいって言っただろ」


 幽霊の存在に救われることがあるなんてね。エレベータの前を通り過ぎ、階段をくだる。


「あれっ、六階に戻らないの?」

「一階から血液検査結果を回収しないといけないわ」

「……」

「どうしたの?」

「いや、ちょっと」


 私とアップルさんは一階に下りた。検査結果を回収し、再び階段を上ろうとしたが。


吉楽きら。エレベータを使おう」


 私は全力で首を横に振った。またバナナを見つけたら、たまったものではない。階段の方が絶対に安全だ。


「階段に……行かない方がいいよ。尋常でない、嫌な気の流れがある」


 ――仕様が無い。アップルさんがそう言った時に限って、絶対に何かあるし。


 エレベータを使うか、と階段に背を向けたその時だった。ガシャーンッと大きな音が上階から聞こえ、怒声と悲鳴が響き渡った。


「止めろ! 誰か止めてくれ!」

「一階に逃げたぞ!」


 階段を誰かが全速力で駆け下りてくる。ぜぇはぁ、と息を荒げながら私へ迫る若い男性の姿に身がすくんだ。彼の額から鮮血が滴っており、両手の爪は剥げて真っ赤になっていた。


 その男性は三段五段飛ばして、あっという間に一階へ到達した。階段の入口に立っていた私は思わず後ずさり、壁に背をぴったりつける。彼は私へ振り返ることもなく、病院の玄関へ突っ走っていった。看護師たちが血相を変えて男性を追ったが、彼は自動ドアを抜けて外へ飛び出してしまった。


吉楽きら。大丈夫か」

「う、うん」


 壁に寄りかかりながら立ち上がろうとしたが、


「ひっ。血……血……あ……あ」


 いたるところに脱走者の血が飛び散っていた。階段を大ジャンプで飛び降りた彼が、着地の際につけた足跡までもが真っ赤だ。私の制服や手指にも、彼の血が付着している。全身が総毛立ち、体温が急激に下がったのを感じた。


「私……血だけは……ダメ、なのよ」


 ふらつく足になんとか言うことを聞かせ、一階の女子トイレへ向かう。手指に付着した血を石けんで綺麗に落とした。何度も何度も同じ場所を洗った。


【つづく】


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