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第10話 水が腐る

 死に字引の全面協力により、物語の舞台となる、百年前のロンドン事情は把握した。その当時は最新だった医学の常識、ありそうでないもの、今は観光地でも百年前は治安が悪かった地域など、守護霊アップルさんは事細かに教えてくれた。


「物語に病院が登場するんだけど、良さそうなところってある?」

「実在する英国の病院をモデルにするのは止めた方がいいよ」


 アップルさん曰く、病院ごとに派閥があり、教会と繋がりがあるかないかでも建物内部の描写や、人員組織が異なるからだという。


「せっかくだから、今の職場を参考にするのはどうかしら」


 私のアイディアを、アップルさんは否定しなかった。憂鬱な病院勤務が、この日を境に少しだけ楽しくなった。


 ――相変わらず変な間取り。風水とか絶対悪そう。


 廊下を歩いていると、開かずの扉や、謎の小部屋が目に留まる。おそらく別の建物を病院に改築したのだろう。迷路のようなつくりは童心をくすぐられる。ひょっとするとどこかに秘密の部屋が隠されているかもしれない。


「吉楽が何考えているかすぐに分かるよ」


 アップルさんは私の隣を歩きながら、楽しそうに呟いた。


「ここに勤め始めた時には嫌な予感しかしなかったけど、吉楽の新作のネタになるって分かったら、ダンジョン攻略って感じがして、ぞくぞくするね」


 ――精神科ダンジョン。精神科ホテル。ホラー映画みたい。


「やあ、こんにちは、お二人さん」


 幽霊ニカさんが廊下の向こうから歩いてきた。今日は紺色のワンピースを着ている。幽霊なのにお着替えができる不思議。うちのアップルさんも数枚を着こなしており、暑くなったら時に半裸だから困ったものだ。幽霊の衣装は、秘密の五次元ポケットに隠されているというが本当なのだろうか。


「おや。吉楽さん、今日は少しだけ表情が明るいね」

「えっ、そ、そうですか?」

「新作小説の調子が良いんですよ。俺の全面協力もあって」


 エドワードさんは誇らしげに自分の胸をトンッとたたく。


「吉楽さんは小説を書いていると話していたね。いいじゃないの、心を打ち込めることがあって。それで今度は何を書くんだい?」


「病院です。この病院をモデルに」


 私が答えると、幽霊ニカさんの表情に一瞬緊張が走った。


「そうかい……。せっかく勤めているんだから、小説のネタにしなくちゃもったいないね」


「でしょう? だって迷路みたいなんですもの」


「この建物は元々ホテルだったんだよ」


 ニカさんの言葉で、この建物に抱いていた様々な謎が一気に解けた。扉のあった場所の痕跡や、迷路のように入り組んだ構造。ホテルの個室をそのまま病室にしたってことなのね。


「でもバブルで経営が立ちゆかなくなって、前理事長が買い取ったのさ。ずっと改築を続けている」


 まるで病院が立つ前から、変容を見ていたような口ぶりだ。


「また、水がにおい始めたね」


 ニカさんは鼻をつまんだ。そういえば最近、薬室にいても「下水が臭う」と感じることが多々あった。


「気をつけてね。アップルさん、彼女を守ってあげるんだよ」


 彼女は意味深な言葉を残して、私たちの横を通り過ぎる。段々と大きくなる金槌の音が不吉な予感を与えた。


「一体何が起こるの、アップルさん」

「さあ? 行こう、吉楽」

「えっ、あ、ちょっと待ってよ」

「書類の押印をもらわなきゃいけなかっただろう」


 アップルさんは急にそっけなくなった。幽霊にしか分からない予感だろうか。


「アップルさん、何か隠している?」

「隠していないよ」

「嘘ね。アップルさんは顔に出やすいもの」

「そうかな?」

「そうよ。水がにおい始めたら、悪いことが起こるの?」

「水が腐ると悪いことが起こる。西洋も東洋も同じだ。水や風は流れるものだろう? 流れが悪くなるということさ」


 ――水がくさる。流れが悪くなる、か。


 爪先から全身がブルッと震えた。人の身体は水で出来ているという。人の体内でも水が腐ることはあるのだろうか。それはつまり、人が腐ることを意味しているのかもしれない。


【つづく】


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