死に字引の全面協力により、物語の舞台となる、百年前のロンドン事情は把握した。その当時は最新だった医学の常識、ありそうでないもの、今は観光地でも百年前は治安が悪かった地域など、守護霊アップルさんは事細かに教えてくれた。
「物語に病院が登場するんだけど、良さそうなところってある?」
「実在する英国の病院をモデルにするのは止めた方がいいよ」
アップルさん曰く、病院ごとに派閥があり、教会と繋がりがあるかないかでも建物内部の描写や、人員組織が異なるからだという。
「せっかくだから、今の職場を参考にするのはどうかしら」
私のアイディアを、アップルさんは否定しなかった。憂鬱な病院勤務が、この日を境に少しだけ楽しくなった。
――相変わらず変な間取り。風水とか絶対悪そう。
廊下を歩いていると、開かずの扉や、謎の小部屋が目に留まる。おそらく別の建物を病院に改築したのだろう。迷路のようなつくりは童心をくすぐられる。ひょっとするとどこかに秘密の部屋が隠されているかもしれない。
「吉楽が何考えているかすぐに分かるよ」
アップルさんは私の隣を歩きながら、楽しそうに呟いた。
「ここに勤め始めた時には嫌な予感しかしなかったけど、吉楽の新作のネタになるって分かったら、ダンジョン攻略って感じがして、ぞくぞくするね」
――精神科ダンジョン。精神科ホテル。ホラー映画みたい。
「やあ、こんにちは、お二人さん」
幽霊ニカさんが廊下の向こうから歩いてきた。今日は紺色のワンピースを着ている。幽霊なのにお着替えができる不思議。うちのアップルさんも数枚を着こなしており、暑くなったら時に半裸だから困ったものだ。幽霊の衣装は、秘密の五次元ポケットに隠されているというが本当なのだろうか。
「おや。吉楽さん、今日は少しだけ表情が明るいね」
「えっ、そ、そうですか?」
「新作小説の調子が良いんですよ。俺の全面協力もあって」
エドワードさんは誇らしげに自分の胸をトンッとたたく。
「吉楽さんは小説を書いていると話していたね。いいじゃないの、心を打ち込めることがあって。それで今度は何を書くんだい?」
「病院です。この病院をモデルに」
私が答えると、幽霊ニカさんの表情に一瞬緊張が走った。
「そうかい……。せっかく勤めているんだから、小説のネタにしなくちゃもったいないね」
「でしょう? だって迷路みたいなんですもの」
「この建物は元々ホテルだったんだよ」
ニカさんの言葉で、この建物に抱いていた様々な謎が一気に解けた。扉のあった場所の痕跡や、迷路のように入り組んだ構造。ホテルの個室をそのまま病室にしたってことなのね。
「でもバブルで経営が立ちゆかなくなって、前理事長が買い取ったのさ。ずっと改築を続けている」
まるで病院が立つ前から、変容を見ていたような口ぶりだ。
「また、水が
ニカさんは鼻をつまんだ。そういえば最近、薬室にいても「下水が臭う」と感じることが多々あった。
「気をつけてね。アップルさん、彼女を守ってあげるんだよ」
彼女は意味深な言葉を残して、私たちの横を通り過ぎる。段々と大きくなる金槌の音が不吉な予感を与えた。
「一体何が起こるの、アップルさん」
「さあ? 行こう、吉楽」
「えっ、あ、ちょっと待ってよ」
「書類の押印をもらわなきゃいけなかっただろう」
アップルさんは急にそっけなくなった。幽霊にしか分からない予感だろうか。
「アップルさん、何か隠している?」
「隠していないよ」
「嘘ね。アップルさんは顔に出やすいもの」
「そうかな?」
「そうよ。水が
「水が腐ると悪いことが起こる。西洋も東洋も同じだ。水や風は流れるものだろう? 流れが悪くなるということさ」
――水が
爪先から全身がブルッと震えた。人の身体は水で出来ているという。人の体内でも水が腐ることはあるのだろうか。それはつまり、人が腐ることを意味しているのかもしれない。
【つづく】