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第9話 死に字引、最高!

 創作は「趣味か、本業か」と界隈ではよく論じられる。

 どちらが正しいとも言えない。趣味として楽しむ人に「本業にしろ」と強制はできないし、「本業だ」と主張する人に「それは趣味の延長だ」と水を差すことは失礼だ。


 私は小説を書いている。

 学生時代からずっと、かれこれ十年以上だ。


吉楽きらには才能があるよ。君は絶対に成功する」


 守護霊は「本業になる」と断言した。


「趣味で書いているつもりはないわ。パソコンの前に座る時は、売れっ子の専業作家も敵わないくらい面白いものを書くんだ、という気合いを入れるもの」


「その意気だよ。目指せコミカライズ化! メディア化!」


「ありがとう。夢は大きく持つわ」


 もちろん売上も欲しい。受賞もしたい。左うちわの印税生活に憧れがないわけではないが、忘れてはならないことが一つある。


「私ね、読んだ人がたくさん笑ってくれる物語を書きたいの」


 うつ小説を否定するわけではない。大学時代、自分の心に整理をつけるために、とびきり暗い小説を長々と書いたことがある。その時はひととき自分の癒やしとなったが、書き手の私でさえ二度読みたいと思うものではなかったのでお蔵入りした


「自分だけの癒やしや幸せを得る為に書いたものは結局、自己顕示欲や名誉欲に食われてしまうと思うの。私は……読者や、作品に関わる人が幸せな気持ちになる物語を書きたい」


「他者の幸いを祈る心があるから、君の物語は温かいんだね」


 アップルさんは寝台から起き上がると、椅子に座る私を後ろからそっと抱きしめた。


「な、なな、いきなりなんですか?」

愛故あいゆえに、ただのスキンシップです」

「あ……暑苦しいです」

「えっ、暑い? てことは手触りとかも分かる?」

「えっ。あ、そういえば……」


 幽霊なのに、生きた人間に触れられたようだ。なんだかぼんやりしているけど。アップルさんの手にためしに触れてみると、綿菓子のようなふんわりとした感覚があった。


「幽霊にも感触はあるの?」

「ふわっとしているけどね」

「私と同じね」


 思わず二人で笑い合ってしまう。


「執筆は順調? あっ、さぼってるな~」


 ワープロ画面ではなく、旅行サイトだ。


「さぼりじゃなくて情報収集。貴方あなたが見えるようになったのも何かの縁かと思って。百年前のロンドンを舞台に書こうかな、と」


「おおっ、いいじゃん! 百年前のロンドンかぁ」


 アップルさんの声が活き活きとしている。やっぱり故郷が懐かしいのかしら。


「資料本を集めたけど、現地に行って自分の目で確かめたいことが山ほどあるの。取材旅行を兼ねて、イギリスに行きたいなーって」


「なるほど。なんだか里帰りするみたいだよ」


「郷愁にかられているところ申し訳ないけど、行くのはかなり先の話だからね」


「えっ、どうして?」


「妊婦が体調不良で何度も休んでいるのよ? 旅行となったら五日間くらいまとまった休暇を取らなきゃいけないし。今すぐ行きたいけど、すぐには無理そうだなぁ」


「生き字引ならぬ、死に字引なら、ここにいるけど?」


 アップルさんは自分を指差した。


「俺、百年前のロンドンなら詳しいよ。住んでいたし。当時のリアルを教えてあげる。資料本に書いていない細かいことまで」


「地元民の生活資料ください! 死に字引最高!」


「お褒めにあずかり光栄です。死に字引、頑張ります!」


 生者の私と死者の彼は、夜が更けるまで物語の構想に耽った。


【つづく】


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