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第8話 幽霊は死語で猥談を交わす

「旦那じゃありません、恋人です! ……ハッ」


 旦那だとは否定したけれど、恋人だとは肯定しているようなものだ。


「ようやく認めてくれたんだね、吉楽きら


 アップルさんは輝くような笑顔を浮かべている。


「アップルさんが恋人だって言っているだけですから。私は前世なんて憶えていないし、確証もありません」

「もう、吉楽さんったら、そんな天邪鬼あまのじゃくに疑わなくてもいいじゃないの。幽霊でもなんでも、吉楽さんが大好きで、ずっと貴女あなたを守っていたんでしょ? 浪漫ろまんだわ~」


 ニカさんは乙女だ。それに比べて私ときたら。まだ自分の精神疾患を疑っている。


「それで? A、B、C,幽体だとどこまで行けるの?」

「A? B? C? なんですか、それ」

「吉楽さんくらいの若い子は知らないのね~。ただの死語だから気にしないでいいのよ、ふふふ」


 幽霊が死語を使うとは、なんとも興味深い現象だ。


「最近は、HIJKという言葉も使われるそうですね」

「そうそう。エドワードさん、物知りねぇ。私の時にはABCだったから、今の子はすすんでいるわ~」

「あの、ちょっと! 二人で一体なんの話をしているんですか?」

「吉楽さんは純粋なのねぇ。エドワードさん、Cまで頑張って」

「幽体ですが、とりあえずHとIが出来るかどうかためしてみます。神の悪戯で、吉楽が見えて聞こえるようになりましたし。この機会を逃したら男がすたって灰になる」

「灰? 亡くなった時点で枯れているでしょ?」

「ひどい!」


 エドワードさんは両手で顔を隠してさめざめと嘆く。


「泣き真似はめなさい」


 アップルさんが両手を下げる。そこには笑顔が浮かんでいた。ほらね、やっぱり。


「エドワードさん、応援しているわ。幽体だからって諦めちゃぁ、ダメよ。愛の力は生死の壁を越えるわ」


 やれやれ。二人がアルファベットに何をあてはめているのかさっぱりだ。幽霊が死語で猥談わいだんを交わしている、ということだけは分かる。


「そろそろお昼時間も終わりだわ。薬室に戻らないと」


 ベンチを立った瞬間だった。カーン、コーンとどこからか大きな金槌の音が聞こえ始めた。六階建ての病棟の向こう側で、先週から始まっている工事の音だ。


「嫌な音。秒読みが始まったね」


 ニカさんは眉をひそめた。


「エドワードさんも気付いているでしょう?」

「ええ、気付いています」

「流れが変わる。たぶんまた柱が立つよ」

「柱、ですか。それは怖い」


 また幽霊にしか分からない会話をしている。なんだか疎外感があった。そもそも生きているのは私一人なのだけど。


「吉楽さん、気をつけてね」


 ニカさんが真剣な表情で私をじっと見た。


「貴女と離れるのは寂しいけれど、早いところ、この病院を出た方が良いよ」

「えっ」

「死人のいない病院なんてないからね。それじゃあ、また」


 ニカさんは中庭を歩いて去った。身体が透けていなければ、生きている人と勘違いするくらいリアルだ。


「やっぱりアップルさんも、ここを辞めた方が良いって思う?」

「思う」

「即答かぁ。でも、そんなこと言われても困るわ。心地よい職場とは言いがたいけど、今は就職氷河期よ。仕事を与えられるだけ恵まれているもの」

「吉楽には天職があると思うよ」

「天職?」

「自分でも分かっているくせに。趣味で終わらせるのは勿体もったいない」


 幽霊には何もかもお見通しらしい。


【つづく】


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