「旦那じゃありません、恋人です! ……ハッ」
旦那だとは否定したけれど、恋人だとは肯定しているようなものだ。
「ようやく認めてくれたんだね、
アップルさんは輝くような笑顔を浮かべている。
「アップルさんが恋人だって言っているだけですから。私は前世なんて憶えていないし、確証もありません」
「もう、吉楽さんったら、そんな
ニカさんは乙女だ。それに比べて私ときたら。まだ自分の精神疾患を疑っている。
「それで? A、B、C,幽体だとどこまで行けるの?」
「A? B? C? なんですか、それ」
「吉楽さんくらいの若い子は知らないのね~。ただの死語だから気にしないでいいのよ、ふふふ」
幽霊が死語を使うとは、なんとも興味深い現象だ。
「最近は、HIJKという言葉も使われるそうですね」
「そうそう。エドワードさん、物知りねぇ。私の時にはABCだったから、今の子はすすんでいるわ~」
「あの、ちょっと! 二人で一体なんの話をしているんですか?」
「吉楽さんは純粋なのねぇ。エドワードさん、Cまで頑張って」
「幽体ですが、とりあえずHとIが出来るかどうかためしてみます。神の悪戯で、吉楽が見えて聞こえるようになりましたし。この機会を逃したら男が
「灰? 亡くなった時点で枯れているでしょ?」
「ひどい!」
エドワードさんは両手で顔を隠してさめざめと嘆く。
「泣き真似は
アップルさんが両手を下げる。そこには笑顔が浮かんでいた。ほらね、やっぱり。
「エドワードさん、応援しているわ。幽体だからって諦めちゃぁ、ダメよ。愛の力は生死の壁を越えるわ」
やれやれ。二人がアルファベットに何をあてはめているのかさっぱりだ。幽霊が死語で
「そろそろお昼時間も終わりだわ。薬室に戻らないと」
ベンチを立った瞬間だった。カーン、コーンとどこからか大きな金槌の音が聞こえ始めた。六階建ての病棟の向こう側で、先週から始まっている工事の音だ。
「嫌な音。秒読みが始まったね」
ニカさんは眉を
「エドワードさんも気付いているでしょう?」
「ええ、気付いています」
「流れが変わる。たぶんまた柱が立つよ」
「柱、ですか。それは怖い」
また幽霊にしか分からない会話をしている。なんだか疎外感があった。そもそも生きているのは私一人なのだけど。
「吉楽さん、気をつけてね」
ニカさんが真剣な表情で私をじっと見た。
「貴女と離れるのは寂しいけれど、早いところ、この病院を出た方が良いよ」
「えっ」
「死人のいない病院なんてないからね。それじゃあ、また」
ニカさんは中庭を歩いて去った。身体が透けていなければ、生きている人と勘違いするくらいリアルだ。
「やっぱりアップルさんも、ここを辞めた方が良いって思う?」
「思う」
「即答かぁ。でも、そんなこと言われても困るわ。心地よい職場とは言いがたいけど、今は就職氷河期よ。仕事を与えられるだけ恵まれているもの」
「吉楽には天職があると思うよ」
「天職?」
「自分でも分かっているくせに。趣味で終わらせるのは
幽霊には何もかもお見通しらしい。
【つづく】