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第5話 バナナ事件

 人は誰しも霊感を持っているのかもしれない。魚にあたった私のように、ひょんなことがきっかけで、秘めたる力が解放されることはあるのだから。


 ――自分がこんなに見えて聞こえるようになるとは。


 通勤に使用する駅は、生者と亡者でごった返していた。


 ――守護霊のいない人も結構多いんだなぁ。あっ、取り憑かれているような人もいる。


 足の踏み場も浮き場もない満員電車に揺られ、職場近くの駅で下車。徒歩で病院へ向かう。閑静な住宅地を歩き続けること十分。竹藪の近くに【クロサギ精神科】と病院の看板が見えてきた。職員用出入り口へ向かう。病院の廊下を歩き始めてすぐ、今まで見ていた光景が百八十度変わっていることに気付いた。


「なにこれ」


 私の勤め先は、こんなに薄汚れていただろうか。

 隣の英国人が申すことには。


「病院なんて、負の想念のたまり場だよ、吉楽きら。特に精神科なんてものは百年前から、こんな感じ。どこの病院よりゴーストが多いって、亡者の間では常識さ」


「へぇ、そう……常識なんだ」


 英国でも日本でも、幽霊最多スポットらしい。


 ――見えない方が幸せだったな。


 床の上に大の字で寝転がって宙を見つめる女、壁を猫のようにかきむしる男、同じ場所をぐるぐる徘徊するだけの痩せ細った少年。


 ――聞こえない方が良かった。


 獣のような獰猛どうもうなうなり声をあげながら四つ足で駆けていく少女の幽霊がいたかと思えば、「死ね」「くそ野郎」という叫び声がどこからともなく響き渡る。隣の幽霊は、何が現れても動揺一つ見せない。慣れた顔つきだ。


 ――私、まだ夢を見ているんじゃ。


 現実そっくりの異世界に迷い込んだような心地だ。


 ――あれ? なんだか頭がぼーっとしてきた。貧血……かな。


 右の側頭部に鈍痛もある。居酒屋で横転した時に頭部を打ったのだろう。


 ――鉄分取った方がいいかも。


 二本の足で確かに歩いているはずなのに、床上数センチ意識だけが浮いているような感覚が続いていた。幽霊がうようよしている不気味な廊下を抜け、階段の前に辿り着いたその時。


「あ、波久礼はぐれさん。おはよう」


 同僚の村井さんが、エレベータの前から私へ手を振ってきた。


 ――あれっ。村井さんには守護霊がいないんだ。


 妊婦だから絶対に誰かいると思っていた。


「今、エレベータ呼んだとこだよ。一緒に乗っていきなよ」

「いえ。私は階段で……」

「いいじゃん、いいじゃん。階段きついよ」


 この病院には「エレベータは入院されている方々の為にあけ、職員は基本、階段を使う」というルールがある。妊婦の村井さんのように身体的に負荷がかかる人や、急ぎの用事の際には、エレベータを使ってよいことになっていたが。


 ――このエレベータ、あまり使いたくないのよね。


 エレベータ内に体臭がこもっていることが多いのだ。お風呂に入りたがらない方がいるし、トイレの後で手をきちんと洗わない人もいる。


「エレベータ、空いている時には使った方がいいよ」


 村井さんに誘われるがまま、私はエレベータの扉の前に立った。なぜうちの病院は、薬室を六階に設けたのだろうか。三階ならちょうど中間で、各病棟への行き来もスムーズだったろうに。


「昨夜は蒸し暑い上に、悪阻つわりがひどくってさ、全然眠れなかったよ」

「それはお辛いですね。大丈夫ですか」

「ん~、大丈夫~。旦那が心配してくれてさぁ。マジきついって言ったら~、私が寝るまで頭をポンポンでてくれた~」


 ――はぁ?


「優しい旦那さんですね」

「頭をでてくれただけだよぉ。でも子供扱いされてるみたいじゃない? 悪阻つわり風邪かぜみたいなものだって言う人もいるけど、うちの旦那は必要以上に心配し過ぎなんだよ~」


 村井さんはそう言いながら、私に見せつけるように結婚指輪をでる。


 ――ああ、階段をのぼれば良かった。


「なんだこの腹立つ女。精神年齢が低いんだな」


 守護霊アップルさんの皮肉のきいた一言で、スッキリ。


 エレベータのライトが点滅する。ゴンドラが一階に到着し、扉が左右に開いた。


「うっわ、サイアクゥ」


 村井さんが鼻をつまむ。エレベータのゴンドラは耐えがたい臭気に包まれていた。この病院は中も外もトイレ無法地帯だ。排泄物はいせつぶつに遭遇することは珍しくない。



「なんだ、ただのバナナじゃん」


 アップルさんのぼかし方が秀逸しゅういつである。


 ――そうだ、アレはバナナだ。


 手違いでエレベータに放棄され、夏の暑さで腐っただけなのだ。耐えがたい臭気をばらまくバナナを即回収、一階トイレに放流する。職員の間では「固形物を見つけたらすぐに廃棄すること」「廊下の濡れた場所や水たまりを踏むな」という暗黙のルールが存在した。


 暗澹あんたんたる気持ちで階段をのぼる。六階の薬室に辿り着いた時には疲労感が増していた。


「いやぁ、朝っぱらから災難だったね」


  先に薬室に上がっていた村井さんは涼しい顔である。私がバナナを廃棄している間に、別のエレベータで六階へ移動したのだ。


「常備薬の点検は先にしておいたよ」


 常備薬。各病棟に置いておく、救急の薬箱のことだ。必要な数が揃っているか、夜間に使用されたか確かめて、薬剤師に報告する。ちり取りも火バサミも必要ない、優しい楽な朝の日課、ご苦労様です。


吉楽きら。二度とこの女と一緒にエレベータに乗るな。こいつはまたバナナを引き寄せる」


 ――そうね。


 どんな猛暑に誘われても、絶対に乗らないと固く胸に誓った。


【つづく】


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