人は誰しも霊感を持っているのかもしれない。魚にあたった私のように、ひょんなことがきっかけで、秘めたる力が解放されることはあるのだから。
――自分がこんなに見えて聞こえるようになるとは。
通勤に使用する駅は、生者と亡者でごった返していた。
――守護霊のいない人も結構多いんだなぁ。あっ、取り憑かれているような人もいる。
足の踏み場も浮き場もない満員電車に揺られ、職場近くの駅で下車。徒歩で病院へ向かう。閑静な住宅地を歩き続けること十分。竹藪の近くに【クロサギ精神科】と病院の看板が見えてきた。職員用出入り口へ向かう。病院の廊下を歩き始めてすぐ、今まで見ていた光景が百八十度変わっていることに気付いた。
「なにこれ」
私の勤め先は、こんなに薄汚れていただろうか。
隣の英国人が申すことには。
「病院なんて、負の想念のたまり場だよ、
「へぇ、そう……常識なんだ」
英国でも日本でも、幽霊最多スポットらしい。
――見えない方が幸せだったな。
床の上に大の字で寝転がって宙を見つめる女、壁を猫のようにかきむしる男、同じ場所をぐるぐる徘徊するだけの痩せ細った少年。
――聞こえない方が良かった。
獣のような
――私、まだ夢を見ているんじゃ。
現実そっくりの異世界に迷い込んだような心地だ。
――あれ? なんだか頭がぼーっとしてきた。貧血……かな。
右の側頭部に鈍痛もある。居酒屋で横転した時に頭部を打ったのだろう。
――鉄分取った方がいいかも。
二本の足で確かに歩いているはずなのに、床上数センチ意識だけが浮いているような感覚が続いていた。幽霊がうようよしている不気味な廊下を抜け、階段の前に辿り着いたその時。
「あ、
同僚の村井さんが、エレベータの前から私へ手を振ってきた。
――あれっ。村井さんには守護霊がいないんだ。
妊婦だから絶対に誰かいると思っていた。
「今、エレベータ呼んだとこだよ。一緒に乗っていきなよ」
「いえ。私は階段で……」
「いいじゃん、いいじゃん。階段きついよ」
この病院には「エレベータは入院されている方々の為にあけ、職員は基本、階段を使う」というルールがある。妊婦の村井さんのように身体的に負荷がかかる人や、急ぎの用事の際には、エレベータを使ってよいことになっていたが。
――このエレベータ、あまり使いたくないのよね。
エレベータ内に体臭がこもっていることが多いのだ。お風呂に入りたがらない方がいるし、トイレの後で手をきちんと洗わない人もいる。
「エレベータ、空いている時には使った方がいいよ」
村井さんに誘われるがまま、私はエレベータの扉の前に立った。なぜうちの病院は、薬室を六階に設けたのだろうか。三階ならちょうど中間で、各病棟への行き来もスムーズだったろうに。
「昨夜は蒸し暑い上に、
「それはお辛いですね。大丈夫ですか」
「ん~、大丈夫~。旦那が心配してくれてさぁ。マジきついって言ったら~、私が寝るまで頭をポンポン
――はぁ?
「優しい旦那さんですね」
「頭を
村井さんはそう言いながら、私に見せつけるように結婚指輪を
――ああ、階段をのぼれば良かった。
「なんだこの腹立つ女。精神年齢が低いんだな」
守護霊アップルさんの皮肉のきいた一言で、スッキリ。
エレベータのライトが点滅する。ゴンドラが一階に到着し、扉が左右に開いた。
「うっわ、サイアクゥ」
村井さんが鼻をつまむ。エレベータのゴンドラは耐えがたい臭気に包まれていた。この病院は中も外もトイレ無法地帯だ。
「なんだ、ただのバナナじゃん」
アップルさんのぼかし方が
――そうだ、アレはバナナだ。
手違いでエレベータに放棄され、夏の暑さで腐っただけなのだ。耐えがたい臭気をばらまくバナナを即回収、一階トイレに放流する。職員の間では「固形物を見つけたらすぐに廃棄すること」「廊下の濡れた場所や水たまりを踏むな」という暗黙のルールが存在した。
「いやぁ、朝っぱらから災難だったね」
先に薬室に上がっていた村井さんは涼しい顔である。私がバナナを廃棄している間に、別のエレベータで六階へ移動したのだ。
「常備薬の点検は先にしておいたよ」
常備薬。各病棟に置いておく、救急の薬箱のことだ。必要な数が揃っているか、夜間に使用されたか確かめて、薬剤師に報告する。ちり取りも火バサミも必要ない、優しい楽な朝の日課、ご苦労様です。
「
――そうね。
どんな猛暑に誘われても、絶対に乗らないと固く胸に誓った。
【つづく】