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第1話 夏の食あたりにご注意を

 酒のさかなは必須だが、夏の食あたりには要注意だ。


 七月七日、地元の気温が日本一暑いと報道された日のこと。職場でとびきり嫌なことがあった私は、酒の力に頼ることにした。安くて美味い大衆居酒屋で、やけ酒、大食いに精を出したのだ。


 顛末てんまつを申し上げると生魚なまざかなにあたった。日本酒に合うだろうと注文した、特上の生寿司だ。今思うと「少し生臭かった」気がする。すでにできあがっていた私の味覚は酔いで誤魔化されたようだ。


 居酒屋のトイレで嘔吐おうとを繰り返した。口をゆすごうとした際、洗面台の前で足をもつらせて横転。過呼吸で全身がしびれ、意識が遠のいた。なんと一歩も立ち上がれなくなったのである。「誰か助けて」とひたすら念じていると、たまたまトイレに入った女性客が倒れている私を発見した。


 救急車に乗せられたところまでは憶えている。救急隊員が夜間受付をしている病院を探す声が聞こえた。どこも緊急の診療で手一杯、病院が見つからないという。私のような食あたりは後回しということか。


 ――お願い、助けて。


 万華鏡のようにゆらめく視界の中、誰かが私の顔をのぞきこむ。その人は私の両手を握ってくれた。顔も体格もぼんやりとしていたが、男性だということは分かる。おそらく救急隊員の一人だろう。



「You are dear to me.」



 意識が途切れる直前、その人は英語をつぶやき、私の両手を握った。


 早口で聞き取れないが、祈りの言葉をひとしきり唱えている。


 ――どうして祈りだと分かるのかしら、私?


 その言葉に聞き覚えがあった。海外出身の救急隊員がいたのだろうか。


 ――私と一緒に誰かが救急車に同乗した……とか?


 それはおかしい。私はお一人様で、はしご酒をしていたので連れはいない。とすると居合わせた誰か。居酒屋の店員だろうか。


 ワケの分からないまま病院に運ばれ、目覚めたらベッドの上。点滴に繋がれ、現在に至る。付き添いは誰もいないはずだった。


「先生。意識が戻りました」


 看護師が医師を連れてきた。

 眼鏡をかけた、恰幅の良い、中年医師だ。

 医師は、私がここへ運ばれた経緯について説明する。


「ヒスタミン中毒によるアナフィラキシーショックではないかと思われます」


 すると医師の背後から「へぇ」と男の声がした。

 もう一人の若い医師が顔を出し、寝ている私をじっと見る。


「ヒスタミン。サー・ヘンリーの? 百年ぶりに聞いた」


 くせのある栗色の髪に、空色の瞳。日本語が堪能な長身の外国人だ。


 ――百年ぶりってどういうこと?


 どう見ても二十代か、三十手前の、白衣を着た若い男性だ。


 ――あれっ、この人……透けてる?


 私は彼を凝視した。


吉楽きら。もしや今、俺の姿が見えているの?」


 私は静かにうなずいた。ひょっとして、ひょっとしなくても。


「俺の声も聞こえる?」


 ――聞こえているわ、全部。


 魚にあたって、私の霊感は開花したらしい。


【つづく】


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