(カタリーナ、僕の天使……)
18歳のアイザック・アッシェンバッハが見つめる先には、一人の美しい女優が舞台に立っている。良く通る声で台詞を紡ぎ、身のこなしはどこまでもしなやかだ。広場に集まった観客は皆、その姿の
(今夜の公演が終わったら、カタリーナにすべて話そう)
アイザックは広場の隅に作られた柵にもたれながら、一月前、二人が初めて出会った日のことを思い出していた。
アッシェンバッハ領にいつものように夏がやって来て、その年のリキュールの仕込みもそろそろ終わろうかというある暑い午後、アイザックが裏通りを通りかかると、何やら見覚えのある男と若い女性が目に入った。聞くともなしに会話を聞いてみると、どうやらその男が女性を酒場で一緒に飲もうとしつこく誘っていて、困らせているようだった。
「なあ、ちょっとぐらいいいじゃねえか、別に減るもんでなし」
「困ります、急いでるんです。通して下さい」
「こんな裏通りにわざわざ自分から足を踏み入れておいて急いでるも何もねえだろう。ここがどういう場所かアンタ知らないとは言わせねえぜ。なあ、一杯だけ、な? ほら行こうぜ」
その男が乱暴者で有名だった小学校の同級生クルトであることに気付いて、アイザックはうんざりした。
(参ったな、クルトか。面倒なところに居合わせてしまった)
こっそり踵を返してその場を立ち去ろうとしたものの、その女性の困った様子がどうにも気になって二の足を踏んでいたアイザックの耳に、次はこんなやり取りが聞こえてきた。
「止めて下さい、大声を出しますよ」
「……ぁあん? お前、人が
「ち、違います! 放して下さい! 誰か、誰かいませんか……!」
(ああもう! 分かったよ! クソッ!)
その切羽詰まった悲鳴にも似た叫び声にどうにも見て見ぬ振りができなくなってしまったアイザックは、仕方なく二人の間に割って入るとクルトの手首を掴んで言った。
「もうそれぐらいにしとけ、クルト。この人、困ってるじゃないか」
「! 何だこの野郎……ってお前か、アイザック。余計な世話だ、黙っとけ。痛い目に遭いたいのか?」
「まあそう言うなよ。お前、先月もこの通りの娼館で騒ぎを起こしただろう? もういい加減にしておかないと今度こそ出入り禁止になるぞ。そうなったら困るのはお前だろ? 頼むよ、このままだと
激高して殴りかかろうとするクルトを宥めながらアイザックが「エドガーに報告」という殺し文句を口にすると、クルトはぶつぶつ言いながらも渋々その場から離れて行った。だが最後にアイザックに向かってこう捨て台詞を吐くのは忘れていなかった。
「ケッ! 男爵家の居候がデカい面しやがって!」
『男爵家の居候』、その言葉を耳にしたアイザックの胸の中にはグレーの重い雲が垂れこめた。僕だって、
「怖い思いをさせてしまいましたね。お怪我はありませんか」
「え、ええ、大丈夫です。助けて下さってありがとうございます」
そこでアイザックは自分たちが街の中心地の広場から一本裏に入った、あまり柄の良くない酒場や娼館が立ち並ぶ一角にいることに気付いたのだった。
「失礼ですが、なぜこんな所に?」
「市場の帰りだったのですが、道に迷ってしまったのです。
「そうですか、とりあえずここから離れましょう。こんな所にあなたのような若い女性が一人でいたらいつまたああいう
そう言ってアイザックが歩き出すと、女性は素直に後ろをついて来た。町の中心にある広場まで戻って来ると、彼女はようやくほっとした表情になった。
「ここまで戻れば、もう大丈夫でしょう」
「本当に、ありがとうございました」
「どういたしまして。……疲れたでしょう。ちょっと座りませんか」
そう声をかけてアイザックが広場の中心にある噴水の縁に腰かけると、女性は一瞬迷ったが、やはり少し疲れていたのだろう、そっとアイザックの隣に腰を下ろすと大きな溜息をついた。
「3日前にここに来たとおっしゃいましたが、どこかから引っ越していらしたのですか?」
「……いいえ、実はあたし、女優なんです。といっても旅回りの小さな劇団なんですけど。ここの夏のお祭りに呼ばれて、この広場で芝居をするの」
「へえ、女優。どうりでお綺麗だと思った。よろしければお名前を伺っても?」
その女性の思わぬ素性に少し驚きながらアイザックが問うと、彼女は少し頬を染めながらこう答えた。
「カタリーナ・シュミットと言います。あの、あなたは? さっきの人があなたのことを『男爵家の居候』と」
「僕? 僕はアイザック・アッシェンバッハと言う者です」
そのアイザックの答えを聞いた瞬間、カタリーナは弾かれたように立ち上がり、おろおろした様子で言った。
「アッシェンバッハって……ここの領主様の……! どうしよう、あたし、とんだ失礼を……」
「ああ大丈夫、僕はアッシェンバッハの姓を名乗ってはいるけれど、貴族じゃない。母が先代のアッシェンバッハ男爵の後妻でね。僕はその連れ子だから、クルトの言ったことは正しいんです。だから気にしないで、普通にしてくれればいい。さあ座って」
「良かった……」
そうして再び隣に腰を下ろしたカタリーナの姿を始めてまじまじと見たアイザックは、雷に打たれたような気がした。さっきクルトとひと悶着あった時にほどけてしまったのか、顔の周りにはらりとかかるくせのない長い金髪と、巣箱から絞ったばかりの蜂蜜のような透き通った瞳。天使だ、とアイザックは直感的に思った。だがその気持ちを気取られないよう、平静を保とうと努めたのだった。
「芝居の演目は? 古典? それとも現代劇?」
「『パリスの審判』です。古典はお好きですか、アイザック……様?」
少しためらいがちに名前を呼んで来たカタリーナの姿に、アイザックの胸が高鳴る。
「様はいらないよ、アイザックと呼んでほしい。僕もカタリーナと呼ばせてもらっていいだろうか。それと古典劇は好きだけど、パリスの審判は観たことがないから、ぜひ観に行きたいな」
「ええ、喜んで! お待ちしてます」
その日以来、アイザックは毎日夜になると広場に設営された舞台に通うようになった。それから十日を待たずして、毎夜、二人は公演が終わるのを待って市場にある屋台で遅い食事を取り、その後噴水に腰かけて遅くまで話し込み、そして……別れ際にはお互いに手を取り合って、口づけを交わすようになっていた。