目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

外伝その1 ある貴賤結婚 episode.4

 「貴賤結婚」とは、夫と妻のそれぞれの所属する社会的・経済的階層ないし法的身分において、大きく上下の隔たりが存在する婚姻の形態をいう。

 当時の大陸の王家や皇室においては、この貴賤結婚は概念的なものでなく、国によって多少の解釈の違いはあったとは言え、完全に明文化された一つの制度であった。


 帝国では長きに渡って皇族と臣下との結婚は許されていなかった。もちろん例外はあったが、いずれも皇族の男性が平民あるいは下級貴族の令嬢を見初め、妻に迎え入れるのがほとんどで、この場合、妻となった女性は夫の身分に起因する皇族としての特権や称号は一切付与されず、また生まれた子供にも皇位の継承権は一切認められなかった。

 従って帝室典範によれば、今回、男女が逆転してはいるが、皇帝の姪であるヒルデガルド公女が地方貴族のアッシェンバッハ男爵家に嫁ぐのはれっきとした貴賤結婚であり、彼女には皇室との繋がりの一切を放棄することが求められた。無論、この先生まれて来るであろうヒルデガルドとエドガーの子供についてもである。


「お前が私の姪であることにはこの先も変わりはないが、お前はアッシェンバッハ男爵家に嫁ぐ時点で公女ではなくなる。もし万が一、エドガーがお前の思うような良き夫ではなかった場合でも、もう離婚して皇室に戻ってくることは許されないぞ。お前はそれを受け入れられるか?……よく考えてみなさい」

「構いません、。わたくしとエドガー様の婚姻が帝国と帝室にとって禍根を残す可能性など、万に一つもあってはなりません。わたくしは全てを受け入れます。陛下の思し召しのままになさって下さいませ」


 間髪を入れずきっぱりと言い切ったヒルデガルド公女の姿に、皇帝陛下は頷かれた。


「そこまでの覚悟ができているのならば、問題なかろう。……全く、お前にはいくつも縁談が来ておったのに。もしこれでお前が不幸になったら、私は姉上に申し訳が立たんではないか。よいな、ヒルデガルド、必ず幸せになるのだぞ」

「ありがとうございます、叔父様。心配ご無用ですわ。わたくし、エドガー様の妻としてふさわしい男爵夫人になってみせます」


 こうして、ヒルデガルド公女の輿入れ先が正式に決まった。……正直なところ、アッシェンバッハ男爵家は一縷の望みを抱いていたのだ。皇帝陛下からの最後通告に対して返した婚姻の条件を目にしたら、公女殿下は諦めて下さるのではないか、と。だがその見通しは甘かった。ヒルデガルドははがねの意志で一目惚れを貫いた。それは、皇帝陛下の姪という身分を捨てて辺境の貧乏男爵家に嫁ぐということの重大さを、彼女自身がまだ理解できていなかったからこそ成しえたとも言えるだろう。公女の身分に見合う嫁入り支度も持たず、侍女も乳母も帯同せず、ほぼ農地しかない領地でこの先一生を送ることがどういうことなのか、15歳の恋に恋する乙女には分かるはずもなかった。


 半年後、ついにヒルデガルド(元)公女がアッシェンバッハ領へ旅立つ日がやって来た。その日の早朝、彼女は宮殿の礼拝堂で最後のミサを受け、その後皇帝陛下の立ち合いのもと、帝国の公女としての身分を返上した。この半年、彼女は膨大な数の書面にサインし続けてきた。母方、父方の双方に遡って、すべての称号や爵位の継承権を放棄する必要があったからだ。中には継承位といっても三桁超えのものもあり、実際にヒルデガルドが相続する可能性など限りなくゼロに近いものがほとんどだったのだが、これだけは皇帝陛下は一切の妥協を許されなかった。そして今日、最後に残った帝国の公女としての身分を放棄し、エドガーの代理人との簡易的な結婚式を済ませたのだった。


 皇族の長距離移動のためにしてはかなり簡素な馬車が宮殿の正門の前に停まっていた。通常なら豪華な家具や調度品が満載された嫁入り行列もない。ヒルデガルドの身の回り品はごく限られたものだけ、既にアッシェンバッハ男爵家に送られていた。文字通り、彼女は身一つで嫁ぐのだ。だがヒルデガルドの頬はバラ色に染まり、濃いブルーの瞳は喜びに輝いていた。


 皇帝陛下が姪を抱擁する。その表情は複雑だ。本当に、やっていけるのだろうか、この夢見がちで我儘で勝ち気で頑固なお姫様が。だが周りに気取られぬよう小さな溜息をつくと、陛下はヒルデガルドに言葉をかけた。


「身体に気をつけて、ヒルデガルド。向こうのご両親とエドガーの言うことをよく聞いて、受け入れて頂けるよう努力しなさい。公女ではなくなっても、お前は私のたった一人の姪だ。常に誇りを忘れず、領民に愛されるよう努めなさい。わかったね?」

「皇帝陛下、この16年のご厚情に心から感謝申し上げます。そして叔父様、我儘を聞いて下さってありがとう。ずっとずっと、愛していますわ。わたくしは永遠に皇帝陛下の姪、ヒルデガルドです」


 涙声で答える姿に、皇帝陛下は小さく頷かれた。そして自ら手を取り、が馬車に乗り込むのを助けると、扉を閉めながらこう続けた。


「定期的に手紙を寄越しなさい。どんな小さなことでもいい、お前がアッシェンバッハ領でどんな人生を歩むのか、私に教えておくれ。頼んだよ、ヒルデガルド」

「はい、叔父様。約束しますわ。必ずお手紙を書きます」


 出発の時間が来た。御者が鞭を振り上げ、馬車がゆっくりと動き出した。皇帝陛下のお姿が小さくなり、やがて見えなくなった。ヒルデガルドは大きく息を吐くと、座席に座り直した。

 隣には乳母のクリスティーナが座っている。その笑顔は引き攣っていた。共にアッシェンバッハ領へは赴くが、現地での結婚式を済ませ、若夫婦の生活が落ち着いたら、姫様を一人残して乳母は帝都に戻るのだ。何もかもがヒルデガルドにとっては未知の世界で、彼女は人生の荒海にたった一人で飛び込むことになる。だがヒルデガルドはその先に明るい未来が待っているとしか、今は考えられなかった。


 生まれて初めて袖を通した、街の洋装店で仕立てた旅行着の着心地にわずかな違和感を感じながら、16歳になったプリンセスは辺境の地へ旅立って行った。

 それは華やかな舞踏会も、輿入れを寿ことほぐ群衆からの万歳の声も、快晴の空を舞う花吹雪もない、ひっそりとした旅路だった。





この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?