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外伝その1 ある貴賤結婚 episode.3

 ヒルデガルドが修道女の真似事を始めて宮廷を大混乱に陥れてからしばらくして、一通の親書が再びアッシェンバッハ男爵家に届けられた。前回と同じく、公女の男爵家への降嫁に対する意思確認のためだった。ほどなくして男爵家からの返書を受け取った皇帝陛下は、その中の一文に目を留められた。


 内容自体は前回と同じで、とうてい公女殿下をお迎えできるような家格ではなく、何卒ご容赦奉りたいというものであったが、今回は当主エドガー直筆での回答であった。前回は、エドガーはまだ家督を継いだばかりで頼りにならぬ、とのことで先代アッシェンバッハ男爵が返書をよこしたのだった。


 エドガーからの返書には、まず形式的な皇室への忠誠と、今回の混乱を招いたことへの謝罪、そしてヒルデガルド公女の降嫁についてご辞退申し上げたき旨が几帳面そうな筆跡で記されていた。皇帝陛下が目を留められたのは、返書のこの部分だった。


『自分も早くに実の母親を亡くす悲しみと淋しさを味わっております故、公女殿下のお気持ちに寄り添って差し上げたいと感じる時もままございますが、その度に私ごときがそのような心情を抱くことこそ不遜の極みと深く恥じ入る次第でございます』


 ヒルデガルドは皇帝の姉、アガーテ大公妃の娘である。

 遠縁のファルケンホルスト大公に嫁いだアガーテ大公妃は、15年前、弟の皇帝への即位とほぼ時を同じくして娘を出産した。

 重なる慶事に国全体が湧いたのもつかの間、大陸の西で新型の肺炎の患者が増えているという小さなニュースが届いたかと思うと、それはあっという間に大陸全土に広まって猛威を奮い始めた。

 帝国もその病から逃れることはできなかった。国中に患者が溢れ、病院のベッドは不足した。毎朝、新聞の一面には日に日に増えていく死者の数が記され、経済は停滞した。

 若き皇帝が流行を食い止めようと奔走しているうちに、皇室にも感染者が出始めた。そしてファルケンホルスト大公とアガーテ大公妃もついに病魔の刃にかかり、あっけなく世を去ってしまったのだった。生まれたばかりのヒルデガルド公女を残して。


 幼いころから仲の良かったただ一人の姉を亡くした皇帝は嘆き悲しみ、その忘れ形見であるヒルデガルド公女の後見人となった。彼女は宮殿に引き取られ、生まれながらの公女として何不自由なく育ったが、やはり両親のいない淋しさは彼女の心に深い影を落としていた。皇帝はその淋しさに気付き、寄り添いたいとひっそりと書いてよこしたエドガーの人となりにふと興味を持たれたのだった。


「ヒルデガルド、話がある」

「エドガー様を諦めろというお話でしたらわたくし、聞きませんことよ、叔父様」

「そうではない、とにかくここへ座りなさい」


 その日もまともに食事も取らず礼拝堂にこもっていたヒルデガルド公女のもとを皇帝陛下が訪ねられたのは、柔らかい光がステンドグラスを通して注ぎ込むうららかな午後のことだった。

 皇帝陛下のご命令をけんもほろろに突っぱねたヒルデガルドだったが、それまでと違う何か含みのある皇帝陛下のお声に、しぶしぶ礼拝堂のベンチに並んで腰を下ろした。


「ヒルデガルド、正直に答えなさい。お前はエドガー・フォン・アッシェンバッハ男爵に手紙を送ったね?」


 皇帝陛下の鋭いお声に、ヒルデガルド公女ははっと顔を上げたが、すぐにふてくされたような表情で横を向くと開き直った声で答えた。


「そ、それの何が問題でして? わたくしはもう立派な大人ですわ。年頃の娘ですもの、想いを寄せる殿方にふみを差し上げることがあってもおかしくはございませんでしょう?」


 恋というものは障害が多ければ多いほど燃え上がるものである。皇帝陛下やクリスティーナが反対すればするほどヒルデガルドはますますエドガーへの想いを募らせた。そして、どんな手を使ったのかは分からないがついに二人の目を盗んでアッシェンバッハ男爵家の住所を入手し、秘密裏にエドガーに手紙を送ったのだった。


「へ、陛下がいけないのです。皆で寄ってたかってわたくしとエドガー様を引き離そうと……ええ、ええ、分かっております。わたくしを罰したいと思し召しならどうぞお好きなように……」

「いや、そうではない。ヒルデガルド、お前を責めるつもりはない。だから冷静に私の話を聞いてくれ」


 焦って早口でまくし立てるヒルデガルドを遮って、皇帝陛下は静かなお声で答えられた。不思議そうな表情になったヒルデガルドに、陛下は質問された。


「エドガー・フォン・アッシェンバッハ男爵からの返事にはどう書いてあった?」

「……公女殿下はまだお若く、これから皇帝陛下の姪御としてその責務を存分に果たされなければならない、と。自分のような田舎の下級貴族のためにお心を悩ませてはならない、殿下から直々にお手紙を頂戴できただけで私は十分すぎるほど幸せです、と書かれておりました……」

「そうか。……誠実で良い若者であるな」


 さっきまでの威勢はどこへやら、急にうつむいて蚊の泣くような声で手紙の内容を告白したヒルデガルド公女の耳に、思ってもみなかった優しい返事が聞こえてきて、公女は顔を上げた。


「陛下……?」


皇帝陛下は頷くと、一通の手紙をヒルデガルドに差し出した。


「ヒルデガルド、よく聞きなさい。アッシェンバッハ男爵家に改めて書簡を送った。ただ今回は、お前がどうすればエドガー男爵と添い遂げられるか、向こうの意向を確認するためのいわば最後通告だ。その返答がここにある」

「えっ……」

「先方は家格が違い過ぎることももちろんだが、こういう形で地方貴族の自分達が皇室と縁続きになってしまうことが将来に禍根を残すのではないかということを懸念している。だからもしどうしてもお前がエドガー男爵の妻になりたいのであれば、まず公女という生まれながらの身分を捨てねばならぬ」

「……続けて下さい」

「それに加えて先方はこうも言ってきた。帝都の宮殿と違い、地方貴族の住まいなどたかが知れているゆえ、華美な嫁入り支度は不要。それから乳母や侍女を常に傍に置けるほどの余裕はないので、落ち着いたらクリスティーナは帝都に戻す。またアッシェンバッハ領のほとんどは農地であるから、領民と近しく付き合っていくことを厭わないでほしい、と。その上で、これらの条件をすべて受け入れて下さり、その上でなおアッシェンバッハ男爵家の一員となりたいと思し召し下さるのであれば、私はあたう限りの誠意と尊敬を持って生涯、殿下を大切にいたしますとエドガー本人が言っている。正直、私は宮廷育ちのお前には荷が重すぎると思うが……お前にそれだけの覚悟はあるか?」


 ここまで言うと皇帝陛下は言葉を切り、最愛の姪に向かって静かに、そしてどこかもう匙を投げたような口調でゆっくりと告げた。


「どうするか、お前が決めなさい」

「叔父様……」


 ヒルデガルド公女の濃いブルーの瞳が大きく見開かれ、唇が細かく震えた。そのまま彼女は封筒を受け取り、便箋の隅から隅まで目を走らせると、しばらくしてから静かに元通りに畳んで封筒にきちんとしまい、皇帝陛下の目を見て落ち着いた声で告げた。


「わたくしはエドガー・フォン・アッシェンバッハ男爵様の妻になります、皇帝陛下」


 一瞬だけ目を潤ませた皇帝陛下が、やれやれと言った表情でお答えになった。


「そうか、分かった。そこまでお前の意思が固まっているのなら、もう好きにしなさい。急いで男爵家に使いを出そう。……おめでとう、ヒルデガルド。さあもうそんな服は脱いで、いつもの公女殿下に戻っておくれ。そしてクリスティーナを安心させてやろう」

「叔父様……大好きよ、叔父様、ありがとう……!」


 突然ヒルデガルドが皇帝陛下に抱きつき、その頬に接吻を浴びせた。陛下は泣き笑いのような表情でしばらくされるがままになっていたが、やがてヒルデガルドを落ち着かせると真剣な表情で彼女を見つめて話しかけた。


「だがヒルデガルド、もう一つ言っておかねばならぬことがある。……この結婚は紛れもない貴賤結婚だ。それがどういう意味を持つのかは、理解しているな?」


 ヒルデガルドも公女の顔に戻って、静かに答えた。

「よく理解しております、皇帝陛下」


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