目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

外伝その1 ある貴賤結婚 episode.2

 宮殿の廊下に、せわしない小走りの足音が響く。

 クリスティーナは重厚な装飾が一面に施された大きな両開きの扉まで来ると、息を整えて護衛に告げた。


「皇帝陛下の姪御、ヒルデガルド公女殿下の乳母、クリスティーナでございます。姫様の御身周りにつき、皇帝陛下に申し上げたきことがございます。火急の要件につき、お取次ぎを」


 護衛は頷くと、扉を開けて奥へ消えて行った。ほどなくして重い扉がゆっくりと開いた。クリスティーナは室内へ足を進めると腰を曲げて深々とお辞儀をし、頭を垂れた。


「クリスティーナ、まだ諦めぬのか、ヒルデガルドは」


 挨拶もそこそこに頭上から降って来る、重々しく、しかも明らかに苛立ちを含んだ声。クリスティーナは身を固くして一層頭を垂れた。


「畏れながら皇帝陛下、諦めるどころか、ヒルデガルド様のご意思は日々一層固くなっておられます。わたくしも折に触れてはご再考なさいますよう進言しておりますが、反対されればされるほどアッシェンバッハ男爵への思慕が募るばかりのようで、ほとほと困り果てておりまして」


 クリスティーナが答えるのを待っていたかのように、大きな溜息が執務室を満たした。明らかに苛立ったご様子の皇帝陛下の指が象眼の施された大きな机を小刻みに叩く。


「全く、いつまで夢物語の世界に浸っておるつもりだ。皇帝の姪ともあろう立場の者が片田舎の弱小男爵の下に嫁ぐなど、ありえないことぐらい良く分かっているはずだろう……。子供のころから強情で言い出したら聞かないところはあったが、ここまでとは。一体誰に似たのやら……」

「も、申し訳ございません、陛下。すべて乳母であるわたくしの不徳の致すところでございます」

「いや、そなたを責めているわけではない。早くに両親を亡くした姪が不憫で、つい甘やかしてしまった私にも責任がある。だがヒルデガルドももう15歳だ。そろそろ帝国にとって意義のある縁談をまとめて公女としての義務を果たしてもらわねばならんのに、まさか一目惚れなどと言い出すとは思ってもいなかった。皇族の婚姻に惚れた腫れたなど不要だ。必要なのは国家にとって有益な相手だけであろう」


 皇帝陛下とクリスティーナとの間には何とも形容しがたい重苦しい空気が漂っていたが、さりとてこの問題をそのままにしておくわけにはいかなかった。クリスティーナがおずおずと口を開いた。


「畏れながら陛下、そのくだんのアッシェンバッハ男爵家からの答えはいかような内容でございましたでしょうか?……まさか姫様を喜んでお迎えしたいなどと……」

「馬鹿者。そんなことがあってたまるか。……そこは先方も百も承知で、そのような責任を負えるような家格ではないと一も二もなく断りの返書が参っておる。男爵家の対応については私の予想通りであったし、むしろ良識ある者達だと安堵したのだ。だが問題は……」

「姫様、でございますね。なるほど、それで合点いたしました。このところ姫様の癇の虫が殊更に酷うございました理由が。されど先方の男爵家からそこまではっきりとお断りの返答がありましたのならば、姫様とて現実をお受け止め遊ばす以外に道はございませぬでしょう。多少、時間はかかるかもしれませぬが、陛下にはこのまま黙ってお見守りになられるのが一番ではないかと存じます」


 皇帝陛下からの親書を受け取ったアッシェンバッハ男爵家は文字通り蒼白となり、慌てふためいて宮廷に返書を届けた。そこには当男爵家は辺境の地を代々治めてはいるものの領地は甚だ寡少にて碌も少なく財産もなく、そのような貴族とは名ばかりの家にかしこくも皇帝陛下の姪御にあたられる公女殿下をお迎えすることなど現実的に不可能であること、もし我が男爵家の当主エドガーの存在が公女殿下のお気を迷わせてしまったのであれば一族全員伏してお詫び申し上げること、このような事態を招いたことにただただ恥じ入るばかりであること、が長々と記されていた。


 当然皇帝陛下はこの返答にいたく満足され、ヒルデガルド公女にも事実がありのままに伝えられた。ここまで固辞されては諦めざるを得ないであろう、やれやれ、それにしてもアッシェンバッハ男爵家が良識ある貴族で助かった。折を見ていくばくかの金子でも下賜してやらねばな……陛下はそうお思いになり、久しぶりに枕を高くしてぐっすりとお眠りになった。だが話はそこで終わらなかった。


「嫌よ! 酷いわみんな寄ってたかって! わたくしを何だと思っているの!」


 悔しさのあまり地団太を踏みながら真っ赤な顔で泣きじゃくるヒルデガルド公女の姿に、私室の隅に控えているメイド見習いが思わず後ずさった。


「姫様、姫様、お静まり遊ばせ。これで良いのです。姫様にはお辛いでしょうが、皇室に生まれるということはこういうことなのでございますよ。人にはそれぞれ見合った生き方というものがあるのです。皇帝陛下もそれを……」

「お黙り! だったら公女の身分など今すぐにでも捨ててやるわ!……嫌い、嫌いよ、叔父様もお前も、みんなみんな大っ嫌い! 出て行って! あの方と、エドガー様と一緒になれないのなら死んでやる! 何をしてるの、早く出てお行き! う、う、ああーーーっ!! エドガー様、エドガー様……!」


 ヒルデガルドは乳母の言葉を遮ってこう叫んだ。そして振り向きざまに象牙の持ち手のついた銀のブラシをクリスティーナに投げつけ、ドレッサーの上の細々とした小物を床の上に払い落して泣き崩れた。小さなガラスの香水瓶が寄木細工の床の上に落ちて砕け、薔薇とジャスミンの香りが立ち上った。


 そして翌朝、皇帝陛下からの朝食を共に取らないかというお誘いを受けたヒルデガルドは、泣き腫らした顔で食堂に現れると開口一番、こう宣言したのだった。


「わたくし、エドガー様と添い遂げられないのであれば、修道院に入ります」


 その日からヒルデガルド公女は絹のドレスを着るのを止め、グレーのウールで作られた一切飾りのないワンピースを纏い、背中にふわりと垂らしていた栗色の巻き毛はうなじのところできっちりとまとめてから白いスカーフで後れ毛一本残さず包み隠して、朝から晩まで宮殿の礼拝堂で神に祈りを捧げて過ごした。


 皇帝陛下は烈火のごとくお怒りになったが、ヒルデガルド公女は誰が宥めてもすかしても頑として聞き入れず祈り続けた。クリスティーナは心労のあまり寝込んでしまった。






この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?