帝国中の主だった貴族が集まった宮殿の大広間は、シャンデリアに灯された蠟燭の光と熱、そして人々の熱気でむせ返るほどだ。
毎年、3月の最後の金曜日に開催される舞踏会。それは前年の秋から続いた社交シーズンの終わりを告げる区切りとなる行事で、年間を通じて最も大規模な夜会だった。
「こんなところにいたのか、エドガー・フォン・アッシェンバッハ男爵」
広間の隅で果実水のグラスを傾けていたエドガーは、背後から声をかけられて振り向いた。
「やあグスタフ、久しぶり。元気かい?」
「ぼちぼちだよ。エドガー、もうすっかり男爵様が板についたな。で、次はそろそろ身を固めようと思ったのかい? 初めて宮廷舞踏会に出席したということは、誰か想い人がいるってことだな?」
友人のグスタフからの好奇心満載の質問を、エドガーは軽く笑って受け流した。
「
「貧乏男爵家か……僕のところも似たようなものだな。ま、折角だから楽しもうじゃないか。とりあえず乾杯しよう、おのぼりさん同士で」
そうお互いに笑いあって果実水のグラスを軽く合わせた時、ホールにファンファーレが鳴り響いた。二人はすぐさま居住まいを正して扉の方に身体を向けた。
樫の木の大きくて重い扉がゆっくりと開き、ひときわ華やかで威厳に満ちた一団がホールに入ってくるのがエドガーの目に映った。皇帝陛下とその親族のご一団だ。そこにいる貴族の男たちは皆軽く頭を下げ、令嬢達はスカートを摘まみ、優雅に腰を屈めて出迎える。エドガーもごく自然にそれに倣い、皇帝陛下ご夫妻がお席につかれたのを見計らって頭を上げた。
その時エドガーは、どこからか強い視線を感じたのだった。
宮廷の夜会に出席したことのない自分の顔を知っている人間などほとんどいない。誰だろうかとゆっくりと頭を回転させてホールを一瞥したエドガーの目が止まり、その視線の主が誰であるかを理解した時、彼は驚愕した。
エドガーを見つめていたのは、薄いピンクの上質なシルクとレースの夜会服に身を包み、真珠とダイヤの首飾りと耳飾りの光を纏い、垂らした巻き毛にドレスと同じ色の薔薇を飾った、まさにプリンセスと呼ぶに相応しい若い女性だった。そして、その女性は……皇帝陛下のすぐ隣に座り、陛下と言葉を交わしながらもエドガーの一挙手一投足のすべてを見逃すまいとでもするよう、濃いブルーの瞳をこちらに向けていた。
「グ、グスタフ。あの方はどなただ? あの陛下のお隣に座っていらっしゃる……」
思わずエドガーはグスタフの脇腹を肘で突いて尋ねた。
「ん? なんだエドガー、そんなことも知らないのか。あの方はヒルデガルド公女殿下、皇帝陛下の姪御にあたるお方だよ。今年15歳になられる。それがどうかしたのか?」
「い、いや、何でもない」
しどろもどろになりながらも何とかグスタフに不審がられないよう答えたが、エドガーには今自分が置かれている状況が全く理解できなかった。皇帝陛下の姪御にあたる公女殿下がなぜ自分をそんなにも凝視しているのか? まさか気づかないうちに何かとんでもない粗相をしてしまっていたのか? そうだ、そうに違いない。一昨年父から家督は継いだものの、めったに帝都に来る機会もなく、今日の舞踏会も半ば仕方なく出席したような田舎者の不調法な僕だ、帝都の貴族社会から笑い者になるような振る舞いがあっても僕は気付くこともできないだろう。……ということは……僕は何かお咎めを受けるのだろうか? そうなったらうちは、アッシェンバッハ男爵家はどうなる? どうしよう、僕はどうすればいい……?
全身に冷や汗をかいておろおろと所在無さげなエドガーの存在など誰も気にしないまま、皇帝陛下が舞踏会の開会を宣言され、乾杯の音頭をお取りになった。ヒルデガルド公女殿下はその間も、この上なく優雅な仕草で煌めくシャンパングラスをさりげなく掲げながら、エドガーから全く目を逸らさず、その全身を凝視されていた。ふとエドガーは公女殿下の眼差しがうっとりと甘く、心なしかお顔が上気されていることに気付いてますます困惑した。
人々の談笑を妨げないよう静かにゆっくりとした調子で流れていたオーケストラの演奏が止まり、一呼吸おいて指揮者がタクトを振り上げた。ダンスが始まろうとしていた。エドガーはヒルデガルド公女殿下が立ち上がり、広間を横切ってこちらへ進んで来るのを認めた。まさか公女殿下は自分をダンスに誘われるつもりなのか……駄目だ、絶対に無理だ。僕はここにいてはいけない。エドガーはあわててグラスをテーブルに置いた。
「グスタフ、申し訳ないが僕は失礼するよ」
「え? まだ始まったばかりじゃないか……おいエドガー!」
怪訝な顔で引き留めるグスタフを振り切り、広間を小走りに駆け抜けるエドガーの視界の端に、今にも人混みをかき分けてこちら側に辿り着こうとする公女殿下の姿が映った。
「いいかげんにお静まり下さいませ、姫様。一体何があったのです、舞踏会の最中に突然お部屋にお戻りになったと思ったら、ずっとお泣きになりっぱなしではございませぬか」
「う……うっ……これが泣かずにいられる? クリスティーナ……わたくし、運命の方を見つけたのに……お声をかける間もなく広間から立ち去ってしまわれたわ……ああ、あの方はどこのどなたなの。きっともう二度とお会いすることは叶わないでしょう……わたくし、今生の思い出に一曲踊って頂きたかっただけなのに……うう……うーーー……っ」
淡いブルーの滑らかな絹地で作られたクッションに顔を埋めて、ヒルデガルド公女は自分の言葉にまた悲しみを掘り起こされたかのように泣き崩れた。その大袈裟すぎるほどの悲嘆にくれる姿を乳母のクリスティーナはやれやれといった顔で見つめて言った。
「はいはい、もう分かりましたからお顔を上げて涙をお拭きになって下さいませ。全く……姫様の思い込みの激しさには困ったものですわね。運命の方など、一時の気の迷いにしか過ぎませんのよ。ご自分のお立場を今一度……」
「気の迷いですって!?
さっきまでの泣き顔から一転、頬を紅潮させて寝椅子から飛び降りようとしたヒルデガルドをクリスティーナは必死で押しとどめた。
「い、いけません姫様! 落ち着いて下さいませ。……分かりました、分かりましたよ、まずこのクリスティーナが皇帝陛下にご報告申し上げます。そこで陛下のお考えを伺ってからどうするか考えましょう。ね? お願いですからもうこれ以上わたくしを困らせないで下さいまし」
生まれた時から常に傍にいて自分を慈しんでくれた乳母の必死の懇願に、ヒルデガルドはしぶしぶ頷いた。
「わかったわ、クリスティーナ。……でもわたくし、あの方を諦めないわよ、絶対に」
15歳のヒルデガルド公女の心を一瞬で射抜いたエドガー・フォン・アッシェンバッハ男爵は、この時18歳。二年前、16歳で父から男爵家の爵位を引き継ぎ、慣れない領地経営に日々奮闘しているところだった。
偶然と呼ぶべきか、運命と呼ぶべきか。たまたま帝都に住んでいた叔母の嫁ぎ先に滞在中、急に具合が悪くなって出席できなくなってしまった当主の名代として出席した宮廷舞踏会で、エドガーは時の皇帝陛下の姪にあたる公女殿下の心を射抜いてしまったのだった。
そして舞踏会の翌日、エドガーは逃げるように自領に戻り、三か月が過ぎてようやくこの一件が彼の記憶から薄れかけた頃、鷲と剣の紋章が箔押しされた一通の封筒がアッシェンバッハ家に届けられた。その封筒の中身を読んで、エドガー自身も、その両親も、文字通り腰を抜かすほど驚いた。
それは皇帝陛下からの親書で、陛下の姉君の忘れ形見であるヒルデガルド公女殿下の、アッシェンバッハ男爵家への降嫁の打診であった。