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エピローグ

「あれからもう五年か。お互い年を取ったな」

「ええ、そうね」


 アッシェンバッハ家の墓所でアンナとマルクスは並んで立っていた。

 二人の前には二つの墓標が並んでいる。一つはエレノア、もう一つはリヒャルトと刻まれている。だがどちらも棺の中は空っぽだ。


 エレノアが崖から身を投げた後、領民達が総出で捜索にあたったが、彼女の亡骸は見つからなかった。

 このあたりは潮の流れが速く、急に水深が深くなるので遭難者もほとんど見つからない。それに夫のヴィルヘルムが長期間の捜索を望まなかったので、もう翌日には捜索は打ち切られた。


 今日、アンナとマルクスが久しぶりに顔を合わせたのは、ヒルデガルドが亡くなったとの報せを受けて国境沿いの療養所に赴いたアンナが諸々の手続きを済ませて戻って来たからだった。


「任せっきりにしてすまなかったね、アンナ」

「気にしないで。ヴィルヘルム様からくれぐれもと頼まれていたのだから、当然のことよ。……それにしても、ようやく肩の荷が降りたわ」

「大奥様はこの5年間、どういうふうに過ごされていたんだろうか」

 マルクスの問いに、アンナは小さく笑った。

男爵家ここにいらした頃とそうお変わりはなかったようで、皆さん我儘ぶりに手を焼いたそうよ。毎日お気にされるのは皇帝陛下からのお手紙のことばかりで、亡くなられるその日の朝までうわ言のように繰り返されていたと看護婦が教えてくれたわ。まあ驚かなかったけれどね」

「そうか。大奥様らしいな」

「ええ」

 アンナは頷くと、一呼吸おいてから墓標のほうに視線を移して続けた。

「ただね、療養所に背の高い金色の髪の看護婦がいて、その人の言うことだけは素直にお聞きになったと……所長さんが……」

 その言葉尻は涙声になった。マルクスが黙ってアンナの背中をさすった。

 ハンカチを顔に押し当てていたアンナが顔を上げた。


「ヴィルヘルム様とリヒャルト様が双子の兄弟でなかったら、お二人とエレノア様がいとこ同士でなかったら、あの戦争がなかったら、何かが変わっていたかしら」

「アンナ、それはもう言っても仕方ないことだろう。そもそもエレノア様にヴィルヘルム様とリヒャルト様のどちらかを選べということからして無理な話だったのさ。……俺はエレノア様が気の毒でならないよ」

 二人は並んだ墓標を見つめ、しばしそれぞれの追憶に浸った。


「それでアンナ、お前さんこれからどうするつもりだい?」


 沈む気持ちを振り払うかのように、明るい声でマルクスがアンナに尋ねた。


「あたし? それなんだけど、実はね、ローレンシアに行くことにしたの」

「ローレンシア? おお、王国の副都か。確かフィッツジェラルド大公家の」

「ええ。亡くなった兄の娘がそこで王立女子師範学校の教師をしていてね、寮母に空きが出て、雇ってもらえることになったもんだから」

「ローレンシアか……。フィッツジェラルド大公家も色々おありで大変そうだが、あそこはいい街らしい。そうか、それは良かった」

「あんたはどうするの、マルクス?」

「俺は今まで通り紡績工場で働くよ。この年で使いっ走りはキツいが、そうも言ってられないからね。まあ身体が動く限り働いて、なんとか生きていくさ」

「そう……無理しないでね」


 教会の鐘が時を告げたのを合図に、二人は墓標を後にした。墓地の入り口で向かい合うとどちらからともなく抱擁を交わし、微笑み合った。


「たまには手紙をちょうだい」

「ああ、まだマクシミリアン坊っちゃまのデビュー公演があるからな」

「そうよ。坊っちゃま、今年の復活祭のコンサートでソロを弾くんですって。マリアンヌ先生がこっそり手紙を下さったの。鼻が高いわね」

「ほお。……マクシミリアン坊っちゃまもお寂しいだろうに、大したもんだ」

「本当にね。転入されてしばらくはかなり酷い虐めに遭ったらしいわ。でもああ見えて坊っちゃまはなかなかに鼻っ柱が強いらしくて、ある時絡んでくる同級生数人を返り討ちにしたそうよ」

「へえ、あの坊っちゃまが。そりゃ頼もしいな。でも分かるような気もするが。エレノア様も芯の通った方だったし、ヴィルヘルム様も……確かに凡庸な領主ではあったかもしれないが、決してただ物静かなだけのお方ではなかった」

「ええ、そうね。アッシェンバッハ男爵家はなくなって、皆いなくなってしまったけれど、マクシミリアン坊っちゃまは確実に道を切り開いておいでだわ。だから生き残ったあたし達には見届ける責任があるのよ、どんなに離れても。そう思わない?」

「そうだな。……さあもう行かないと。汽車に乗り遅れるぞ」

「あら大変。ありがと、マルクス。元気でね」


 そして二人は互いに背を向け、別々の方向へ歩いていった。


 駅へと向かう通りを歩きながら、アンナはさっきマルクスに言わなかった言葉を胸の中で反芻していた。


 我が子同然に育てたエレノア様を、あたしは救えなかった。その痛みは永遠に消えない。でもエレノア様はあの酷い時代を確かに生きて、マクシミリアン坊っちゃまという希望をあたし達に託していかれた。だから生き残ったあたし達には、見届ける責任がある、どんなに離れても……きっとヴィルヘルム様も、新大陸のどこかでそう思っていらっしゃるに違いない。生きてさえいれば、いつかまた逢えるわ……。


 通りの端を荷馬車が車輪を軋ませながら進んで行く。荷台に積まれた木箱には酒瓶の焼き印が押されている。今年造られたマルベリーのリキュールが出荷を迎えて駅へと運ばれていくのだ。その横を爆音を響かせて最新式のオープンカーが通り抜けて行った。ようやくここまで立ち直ったのね、と、アンナは安堵した。


 2年前に発足した内閣が本腰を入れて経済対策に乗り出し、共和国の混乱の収束に奔走したおかげで、天文学的なインフレは少しづつ解消されていった。


 突然背後から強い風が吹いて、アンナは一瞬よろめいた。街路樹に止まっていた椋鳥の大群が一斉に羽音を立てて空へ飛び立っていく。アンナは振り返って街並みを一瞥すると、踵を返して駅の表階段を早足で駆け上がっていった。







マルベリーの木の下で、あなたはわたしの全てを奪う 〈完〉


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