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終章・後編 もう一つの花言葉

 ヒルデガルドはついに、エレノアの死を理解できなかった。

 あの日からも彼女はなんら変わることなくひっきりなしに床を踏み鳴らしてエレノアを呼び、皇帝陛下からのお手紙が来ていないかと喚き散らした。


 ヴィルヘルムは早々に音を上げた。そして彼はエレノアがどれほどの覚悟と忍耐力と慈悲の心を持ってアッシェンバッハ家を守り続けていてくれたのかを初めて理解して、改めて自らの無力さを恥じた。


 アンナの薦めに後押しされて、ヴィルヘルムはヒルデガルドを専門の病院に入れることにした。国境沿いの湖のほとりにある小さな療養所が彼女を受け入れてくれることになった。くだんの国債の購入のためにヒルデガルドは自分の年金まで担保に入れてしまっていたので、仕方なくヴィルヘルムは土地を売った残りの金を入院費に充てた。

 療養所の職員には母の出自は伝えず、ただ自分を先帝の姪だと信じ込んでしまっていて困っていると伝えるに留めた。一笑に伏されるかと心配したがそこはさすがに専門家で、ああそういう方はよくいらっしゃいますよ、慣れてますのでご心配なくとさらりと返されてヴィルヘルムは胸を撫で下ろした。


 こうしてそれぞれの道が決まったところで、ヴィルヘルムは残ったいくばくかの金を女中のアンナと執事のマルクスに渡した。二人とも頂く訳にはいかないと固辞したが、ヴィルヘルムは受け取ってくれないならヒルデガルドを療養所から呼び戻して面倒を見させるぞと脅して半ば無理やりに話を収めた。


 そして最後に、ヴィルヘルムはアッシェンバッハ家が持つ男爵の称号を返上した。

 帝国から共和国になってからも形ばかりの貴族制度は残ってはいたが、もうヴィルヘルムにとってはそんなものは無用の長物だったし、何より息子のマクシミリアンに過去に囚われず自由に生きて欲しかったのだ。


 汽車の到着時間が迫っている。ヴィルヘルムはマクシミリアンに向き合った。


「マクシミリアン、今から父さんが言うことをよく聞いてくれ」

「?」

「お前は、もう二度とアッシェンバッハ領に戻って来てはいけない。それから少なくとも音楽学校を卒業するまでは、父さんやアンナやマルクスに手紙を書くのも駄目だ。もしお前から手紙が来ても返事は出さないよ。いいね?」

「父さん、何を言っているの……? 手紙も書いちゃ駄目なんて、そんな……」


 心細さに声を震わせる息子に、ヴィルヘルムはゆっくりと言って聞かせた。


「いいか、マクシミリアン。お前がこれから考えなきゃいけないのは過去じゃない、未来だ。お前の未来はどこにある? 音楽の中にだろう? 何か道を極めるのは並大抵のことじゃない。お前のこれからの人生は全て音楽に捧げなさい。……それに、もうアッシェンバッハ家はないんだよ。男爵家の爵位は返上したからこの先お前の名字には付かないし、あの家ももう他人のものだ。でも父さんとお前の胸の中ここにいつまでも残っている。……母さんと三人で過ごした、短いけれど幸せだった日々が。その思い出を大切にして、お前はお前の世界へ羽ばたいて行きなさい。父さんの言いつけを守ると約束してくれるね?」


 マクシミリアンはぎゅっと目を瞑って涙を堪えると、ヴィルヘルムの目をまっすぐに見据えてゆっくりと答えた。


「約束します、父さん。そして必ず夢を叶えます」


 ヴィルヘルムは息子の頬を両手で挟み、少しおどけた調子で続けた。


「よし。……心配するな、お前が国立管弦楽団のソリストとしてデビューする時には、必ずアンナとマルクスと三人で舞台を観に行くからな。頼んだぞ」

「父さん……約束だよ」


 汽笛と共に汽車がホームに滑り込んで来て、降りる客と乗る客で二人の周りは急に騒がしくなった。ヴィルヘルムが杖を片手に立ち上がる。マクシミリアンが心配そうな口ぶりで尋ねた。


「父さん、本当にその足で新大陸に働きに行くの? 痛むんでしょ?」


 だがヴィルヘルムは明るく笑ってこう答えた。


「大丈夫だ。父さんも新しい土地でもう一度やり直してみるよ。笑顔で送り出しておくれ、マクシミリアン。父さんはお前の笑顔だけを目に焼き付けておきたい」


 そう言ってマクシミリアンを抱きしめ、その後ろに立っているマリアンヌ先生と視線を交わす。……息子を頼みます、先生。あなたの優しさに縋るのは心苦しいけれど、僕にできることはもうない……。


 ヴィルヘルムの胸中を理解してマリアンヌ先生が静かに頷いた。昨夜先生はご自分の過去を話して下さった。先生も新婚の夫を戦争で亡くしていた。そして夫の戦死が伝えられた時、先生はショックのあまりお腹に宿していた子供を死産されたのだという。……あの子が生きていたら、ちょうどマクシミリアンと同じ年頃でした。だから彼のこともエレノアのことも、他人事とは思えないのです。そう静かに笑うマリアンヌ先生に向かって、ヴィルヘルムは深々と頭を下げることしかできなかった。


 発車を告げる汽笛が鳴る。ヴィルヘルムは汽車に乗り込むと、振り返って手を伸ばした。マクシミリアンがその手に触れる。もう一度汽笛が鳴り、車輪がゆっくりと規則正しい音を立てて回り始めた。動き出した汽車を追いかけてマクシミリアンが走り出す。


「父さん! 父さん! 大好きだよ父さん!」

「愛してるよマクシミリアン! がんばれ! 父さんと母さんはいつでもお前のそばにいる!」

「父さん、父さん……!」


 ホームの端から身を乗り出して声を限りに叫ぶマクシミリアンと、その肩を抱くマリアンヌ先生の姿が見えなくなると、ヴィルヘルムは痛む右足を引きずってのろのろとデッキから客車へ移動した。三等車は混雑していたが、運良く窓際の座席に座ることができた。


 通路の向こうから一人の女性が歩いて来た。その女性のくせのない長い金色の髪が視界に入り、ヴィルヘルムは一瞬はっとする。だがもちろんではない。後ろ姿を見送って我に返ったヴィルヘルムは苦笑した。


 あの夜、二人は秘密を共有して、共に十字架を背負って生きようと話したが、ヴィルヘルムは心のどこかでそんなことは夢物語だということを分かっていた。そして、遅かれ早かれエレノアは自らの手で裁きを下すだろうということも。だからあの時、ふわりと風に舞うように崖から飛んだエレノアの姿を見ながらこう思ったのだ。


 僕はこの時が来るのを、心のどこかで分かっていたのかもしれない……。


 エレノアがあんなにも激しく自分を求めた理由が今なら何となく理解できた。彼女はあの一晩で命の全てを燃やし尽くしたのだ。そして最愛の息子の行く末をヴィルヘルムに託して去って行った。彼女の魂が救済される道はそれ以外なかったのだ。


 ヴィルヘルムは心の中でマクシミリアンに語りかけた。

 強く生きろ、幸せになれ。……アッシェンバッハ家最後の当主ヴィルヘルムとエレノアの息子、マクシミリアン。母を恨むな、お前の怒りはすべてこの父が背負う。そしてお前の音楽で、いつか全世界をひれ伏させろ。アポロンとミューズ音楽の神の加護のもとに生まれた、選ばれし子よ……。


 不意に高く長い汽笛を鳴らして、汽車が急カーブを曲がった。濃いグレーの煙が窓の外を覆い、視界が遮られる。ヴィルヘルムはこみあげる嗚咽を隣の乗客に気取られないよう、窓の方に顔を向けた。


 それから半年ほど経ったある日、新大陸のある港町の路地裏で、一人の男がこめかみを銃で撃ち抜いて死んでいるのが発見された。その男の右足に酷い火傷の痕があったこと、また男の右手に握られていた銃の型式から、先の大戦で瓦解した帝国の軍人ではないかとの声もあったが、詳しくは分からなかった。


 この男の死は地元の新聞の三面記事に小さく報じられたが、目を留める者はほとんどいなかった。その港町は移民が最初に新大陸に降り立つ場所で、外国人よそものなど日常茶飯事だったからだ。それに何より、新大陸の民衆は初めて味わう戦勝国としての勝利の美酒に酔いしれていた。負け犬の生き死になど知ったことじゃない、私達には今を楽しむ権利がある、そういった空気が国中を覆い、誰もが皆享楽的な日々に身をまかせることに躍起になっていたのだ。だがそれは同時に、この楽園がしょせんは砂上の楼閣でしかないことを誰もが感じ取っていたからでもあった。……近い将来、必ずまた悲劇が訪れる。だからせめてその日が来るまで楽しもう。長い鎌を掲げてドアの陰から様子を窺っている死神の視線を背中に感じ取りながら、人々は煙草と酒とシャンデリアの煌きの中で大して可笑おかしくないことにも大袈裟に笑い転げて日々を送った。


 結局その男は名前もわからないまま、薄い合板を貼り合わせて作られたごく簡素な棺に納められて、町はずれの共同墓地にひっそりと埋葬された。

 彼は身元を証明するものは一切持っておらず、所持品は小さなロケット一つだけだった。

 そこには二束のまっすぐな金色の髪が入っていた。






















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