伸ばした手が虚空を掴む。
「ん……」
エレノア……もう起きたのか?……。
違和感を感じて、
「エレノア……どこだ……?」
ベッドのシーツは冷たく、エレノアの気配はどこにもない。
言いようのない不安に駆られたヴィルヘルムは痛む右足を引きずってベッドから降りると、椅子の背に掴まってふらつきながらなんとか立ち上がって寝室を見回した。
「エレノア……どこにいる……どこに……」
その時、寝室の窓の向こうに、裏の崖に向かって歩いていく人影が見えた。倒れ込むように窓に近づいて瞳を凝らす。朝日を反射する金色の長い髪……背の高い……あれはまさか……。
「エレノア!」
ヴィルヘルムはエレノアが何をしようとしているのかを察して全身の毛が逆立った。よろめきながらシャツとトラウザーズを身に着け、杖を手にして寝室を飛び出す。ほとんど転がり落ちるようにして階段を降り、玄関のドアを体当たりして開けると足を引きずりながら必死で崖のほうへ向かった。
エレノア、駄目だ……待ってくれ、お願いだ、間に合ってくれ……! 畜生、なぜ僕はこんなにも無力なんだ。あんなに速く走れたじゃないか、あんなにマルベリーの木に易々と登れたじゃないか、それなのになぜ今こんな時に限って、自分の身体一つ思い通りにならないんだ……! クソ、この役立たず……!
ゼエゼエと息を切らし、ふらふらになったヴィルヘルムがマルベリーの大木の根元まで辿り着いた時、ちょうどエレノアはこちらに背を向けて崖の先端に立ったところだった。
ヴィルヘルムはかさかさに乾いた喉を振り絞って、声の限りに叫んだ。
「エレノア! 止めろ! 戻ってくれ、お願いだエレノア!」
その叫び声にエレノアがゆっくりと振り返った。ばらばらにほどけた髪が強風に煽られてその表情を覆い隠していた。
「エレノア、どうして、どうしてなんだ、僕を信じると言ってくれたじゃないか。頼む、戻ってくれ……馬鹿なことを考えないでくれ……」
「ごめんなさい、
「ダメだ! 止めてくれエレノア! 僕たちのためじゃない、マクシミリアンのために思いとどまってくれ……。二人で地獄に落ちると決めたじゃないか、一人だけ先に逝くなんて許さない! 戻ってくれエレノア……!」
だがその叫びは既にエレノアの耳には届いていないようだった。彼女は微かに微笑むと首を横に振り、誰に聞かせるでもないかのように静かに呟いた。
「ずっと、子供のままでいたかった。ヴィルとリヒャルトとわたし、三人でずっと……このマルベリーの木の下で、あなたはわたしの全てを奪ったのよ……」
そして声を出さずに唇だけ動かすと、次の瞬間、ふわりとその身を空中に投げ出した。一瞬の間、時間が止まり、真っ直ぐな長い金色の髪が風に揺られて広がった。その姿は彼らが幼い頃に目にした、教会の壁に掲げられた絵に描かれた天使によく似ていた。
(さよなら……)
「エレノア!!」
「母さん!!」
背後から響いた甲高い叫び声にヴィルヘルムが振り向くと、首都にいるはずのマクシミリアンが泣きながら後を追おうとしていた。咄嗟にヴィルヘルムがこちらに走って来る息子を抱き止めてその動きを封じる。それでもなおもエレノアの後を追おうとして暴れるマクシミリアンをきつく抱きしめて声をかけながら、ヴィルヘルムは茫然と立ち尽くしていた。
「見るんじゃない、マクシミリアン……! 見るな、見るんじゃない……!」
「嫌だ!! 母さん!! 母さん!! 戻って来て母さん! こんなの嫌だよ……僕を置いていかないで! 母さん、かあさ……ん……!!」
泣き叫んでいたマクシミリアンが突然気を失って、ヴィルヘルムの腕の中でがっくりと倒れ込んだ。ふと気が付いて後ろに目をやると、少し離れたところに真っ青な顔でぶるぶる震えながら立ち尽くすマリアンヌ先生の姿があった。ヴィルヘルムは一切の感情を失ったような抑揚のない声でマリアンヌ先生に問いかけた。
「なぜ、こんな朝早くにここへ……?」
「昨夜マクシミリアンが、どうしても家へ帰ると言って聞かなくて……それで急遽、最終の汽車に乗って……たった今、到着したところでしたの……」
「そう……ですか……それは……お手間をおかけしました……」
「エレノア、なぜ……なぜこんなことに……何があったのですか、アッシェンバッハ男爵……?」
「事故です」
「え?」
決然と顔を上げて答えたヴィルヘルムに、マリアンヌ先生は困惑した表情で聞き返した。
「事故、とは……?」
「だから、事故です。エレノアは崖から足を踏み外して落ちたんです。自殺じゃない、これは事故だ」
「で、でも」
「事故です! 自殺じゃない、事故だ……違う、自殺じゃない……そうだよな、エレノア? そうだと言ってくれ……エレノア……う……あ……ああ……あああ……っ!」
血の気の引いた顔でぴくりとも動かないマクシミリアンを抱いたまま、ヴィルヘルムはその場に
(僕はこの時が来ることを、心のどこかで分かっていたのかもしれない……)
異変に気付いたアンナとマルクスが血相を変えて走ってくるのがヴィルヘルムの視界の端にぼんやりと映った。
彼らの目にこの光景はどう映ったのだろう。
その後、誰一人としてこの時のことを口にする者はいなかった。
皆、今さら何を言っても悲しみが増すだけだということを十分すぎるほど理解していたからだ。