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第24話 あの子にだけは

「あの子はあなたの子よ、リヒャルト」


「……え?」


 リヒャルトは理解が追いつかなかった。


「……僕の……子……?」

「ええ、間違いないわ。マクシミリアンはあなたの子よ」

「まさか、なぜそんな。確かにあの日僕は君に……でもたった一度だけじゃないか。それにヴィルが出征する前の晩に君とヴィルは……嘘だ、そんなはずはない」


 ぞっとするほど冷静さを取り戻したエレノアの声がリヒャルトに届く。


「信じられないのも無理はないわ。でも、あの子はあなたの子よ。戸籍上はヴィルとわたしの子供だけど、父親はあなたよ」

「なぜ分かるんだ」

「……」

「説明してくれ、エレノア。なぜ僕の子だと言い切れるんだ?」


 エレノアは眉間に皺を寄せて唇を噛み、歯を食いしばって涙を堪えてから、たぶんヴィルヘルムが最もリヒャルトに知られたくなかったであろう真実を、ゆっくりと告げた。


「ヴィルは子種が無かったの」


「な……んだ……って……? 子種がないって、なぜ……?」


 その問いに、エレノアはリヒャルトから顔を背け、目を閉じながら吐き出すように答えた。リヒャルトの両手が小刻みに震え、顔面蒼白になった。


「あなたとヴィルが13歳の夏休みに、ヴィルがおたふく風邪に罹ったの、覚えてない? あなたは隣町の農場に働きに出かけてて屋敷にいなかったから伝染うつらなかったけれど。たぶんその時に高熱を出したのが原因じゃないか、って……」

「なぜ分かったんだ? ヴィルはそのことを知っていたのか?」

「薄々は気づいていたのかもしれないわ。……ヴィルは子供を欲しがっていたの。でも結婚して2年以上たっても全くその気配がないから、新しくできた大学病院で調べてもらっていたのよ。でも結果が届く前にヴィルは徴兵されてしまって、真実を知らせる機会はなくなってしまった……その直後よ、わたしが妊娠していることに気づいたのは」

「何てことだ……」


 だがその時、考えることを忘れてしまったかのように動きを止めていたリヒャルトの頭にある疑問が浮かんだ。それはの存在だった。


「エレノア……母さんはそれを知っているのかい? 知っているとしたら、どうやってマクシミリアンをヴィルの子供にできたんだ?」

「……」

「お願いだ、答えてくれエレノア」

「……」

「エレノア!」


 エレノアの口から、嗚咽混じりに切れ切れの言葉が漏れた。


「大奥様は、全てお察しよ……ヴィルの身体のことも、マクシミリアンが誰の子かも」


 ヴィルとリヒャルトが出征して3ヶ月が過ぎた頃、もうどうにも妊娠を周囲に隠せなくなったエレノアは、意を決してヒルデガルドに真実を告げたのだった。


「ここを出て、一人で産もうと思ったの。そしてあなたが戦争から戻ってくるのを待とうと。だから大奥様にヴィルとの離婚を切り出したの」


 ヒルデガルドは眉ひとつ動かさずこう言ったのだ。


『誰の子じゃ』

『……』

『リヒャルトかえ?』

『!!』

『図星のようね』

『……なぜそれを』


 どれほど罵倒されるか不安で堪らずただ頭を垂れて黙りこくるエレノアに、ヒルデガルドはねっとりと貼り付くような微笑を投げかけて、思いもよらないことを言った。


『ようやくお前も皇帝陛下とアッシェンバッハ家のために役に立てる時が来たようね、エレノア』

『どういうことでしょうか。……この子は不義の子です。避けられなかったとは言え、わたしは夫以外の男性に身を任せました。許されることではありません』

『馬鹿馬鹿しい。不義の子になどしなければ良いだけのこと』

『?』

『ヴィルは検査の結果を知らないのでしょう?』

『……まだ知らせてません』

『ホホホ……好都合だこと。腹の子はヴィルとお前の子よ。いいわねエレノア』

『大奥様、まさか』


 その時一瞬、ヒルデガルドの顔にはようやく肩の荷を降ろしたような晴れ晴れとした表情が浮かんだが、すぐにいつものエレノアに向ける冷ややかな目に戻った。


『まあ卑しい女優の血を引く女が母親なのは不愉快極まりないけれど、この際目を瞑るしかないわね。……何を呆けたような顔をしているの、エレノア? 父親がヴィルでもリヒャルトでも、腹の子は正当なアッシェンバッハ家の後継として何の問題もなかろう。同じ顔なのだから文句のつけようはあるまい。さて、戦争が終わった後、ヴィルとリヒャルトは揃って無事に戻って来るか、それともどちらか一人か……。エレノア、お前はどちらに帰って来て欲しい? 全く男を手玉に取ることだけは上手いものだこと』


「よくもそんな残酷なことを……母さん……あなたは……」


 実の母親の悪魔のような一面に憤り、リヒャルトは拳で自分の太腿を何度も叩いた。

 だが、それでは終わらなかった。


「わたしは迷いを捨てきれなかったの。それまでは一人で産んで育てようと思っていたのよ。でも現実は厳しかったわ。戦況は悪化する一方で帝都も危険だと言われていたし、あなたとヴィルががどこで戦っているのか、無事なのかも分からなかった。それに、そんな環境で産まれた子供を幸せにしてあげられるのか、自信が持てなかったの。我が子がと呼ばれることを自ら望む母親などいないでしょう?……だから……」


 エレノアはヒルデガルドに尋ねた。


『この家で、産んでも良いのですか、この子を……』


 だがヒルデガルドの返事は、エレノアを恐怖のどん底に突き落とすものだった。


『ただし』

『?』


『必ず男子を産め。産まれた子が女だったら、親子ともども身一つで叩き出す』


 言葉を失うリヒャルトの前で、エレノアは当時の衝撃を思い出したかのように両手で自分の身体を抱きしめながら続けたが、その声はリヒャルトの耳に届いているかは定かではなかった。


「それから産まれるまでは、文字通り針の筵に座っているような毎日だったわ。わたしは必死で祈った。お願いだから男であって頂戴、と。マクシミリアンが産まれて男だと分かった時、わたしは安堵のあまり気を失ってしまったほどよ」


 しかもこの話には更に続きがあった。産まれたのが男児だと聞くとヒルデガルドは狂喜したが、赤子を抱き上げて一目見た瞬間、不快そうに顔を歪めるとエレノアに突き返した。マクシミリアンがエレノアによく似ていたからだった。瞳の色こそヴィルやリヒャルトと同じ藍色がかった濃いブルーだったが、髪はエレノアと同じまっすぐな金髪で、顔立ちも母親そっくりだった。


「それ以来大奥様は、マクシミリアンへの関心を失ったの。あの子がヴァイオリンが上手だと聞いても、卑しい女優の血を引いているから芸の真似事が上手いんだろうとしか仰らなくて……そうこうしているうちに戦争は終わったけれど、もう大奥様には帝国が負けたことも皇帝陛下が処刑されてしまったことも、別の世界の出来事になってしまっていたのね。……だから毎日皇帝陛下に手紙を書くの。届いていないとは思っていらっしゃらないのよ。いつもわたしがこっそり燃やしているのに……」


「もう十分だ、エレノア。それ以上言わないでくれ」


「だから、あの子はあなたの子なの。でもはヴィルよ。……リヒャルト、あなたはヴィルとしてここへ帰って来たわね。けれど、この先もずっととして、あの子を愛することができるのかしら?……わたしはあの子には、マクシミリアンにだけは、こんな汚らわしい事実を知らせたくない。だから、答えてリヒャルト、本当に死ぬまでヴィルとして生きてゆく覚悟はある? あの子のために今ここでリヒャルトという人間の存在を完全に葬り去ることができる?」


「リヒャルトではなく、ヴィルヘルムとして息子を愛する覚悟……」


「ええ、この先ずっとは追憶の中でだけ存在する人になるのよ。あなたがそれに耐えられると誓うのなら、わたしは、わたしは……」


 最後まで言わせず、リヒャルトは火傷のせいでうまく曲がらない脚を折ってエレノアの足元に跪いた。


「誓うよ、エレノア。リヒャルトは死んだ。そしてマクシミリアンの父親はヴィルヘルムだ。何があっても僕はヴィルヘルムとしてあの子を愛すると誓う。だから、息子のそばにいさせてくれ、お願いだ……」


「リヒャルト……いいえ、ヴィル……あなたを信じるわ」


 許されざる罪を犯したリヒャルトと、息子のために共犯になることを選んだエレノアは、おずおずと抱き合った。


 だがその時、エレノアの顔に浮かんでいた表情はリヒャルトには見えなかった。











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