「ヴィルに結婚してくれと言われたのは、パパの詐欺の件がほぼ片付いた頃だったわ。最初にそう言われた時、わたしはすぐに返事をすることができなかった。あなたを愛していたから。でもヴィルがパパを助けてくれたのも事実だから、断れば恩を仇で返すことになる。わたしにはできない……。悩んでいるわたしにヴィルはこう言ったの」
ヴィルはリヒャルトへの想いとヴィルへの恩義の間で揺れるエレノアにこう言ったのだった。
エレノア、君を愛している。君と結婚したい。でもアイザック叔父さんのことを交換条件みたいにチラつかせるつもりはない。それとこれとは全く別の話だ。
君がリヒャルトを愛していることは分かっている。僕と結婚したら君はリヒャルトと同じ顔をした別の男に抱かれることになる。それが君にとってどれほど辛いか、自分がどれだけ残酷なことを言っているかも承知している。……それでも僕は君が必要なんだ。リヒャルトは己の力で文字通り大空へ羽ばたいて自由を手に入れた。でも僕には何もない。このアッシェンバッハ領にさえ、僕の居場所はない。僕が爵位を継ぐと決まった時、皆はリヒャルトが気の毒だ、僕よりずっと次の男爵に相応しいのに、としか言わなかった。僕はこの先もずっと、皆を失望させながらこの土地で生きていくのかと思うと、自分が惨めで堪らない。だからエレノア、せめて僕に君と共に生きる希望をくれ。僕を愛してくれなくても、同情でも憐れみでも何でもいいから、お願いだ。君までいなくなってしまったら、僕はもう生きている意味がわからなくなってしまう。
「ヴィルがそんな気持ちでいたなんて、初めて知ったわ……いつも静かに笑っていたヴィルが……。わたしは……ヴィルを一人残していくことなど……できなかったのよ……」
その時のエレノアの心情が理解できない訳ではなかったし、ヴィルが知らず知らずのうちに追い詰められていたことに気づけなかった、いや、気づこうとしなかった自分がいかに浅はかだったのかは認めざるを得なかった。それでもやはりリヒャルトは、自分はヴィルに負けたのだという感情を捨てることはできなかった。
「そんな……僕だって、君がヴィルと結婚したと聞いた時、もう生きて行けないと思ったよ……僕の気持ちはどうでも良かったのかい?」
咎めるような口ぶりにならないよう必死に自分を抑えたつもりではいたが、無駄な努力だった。エレノアの呼吸が再び荒くなり、表情に一層悲しみがこもった。
「そんな訳ないでしょう? あなたを愛していた気持ちに嘘はないわ。……でもねリヒャルト、あなたは強い人よ。怒りも憎しみも、やがて全て飲み干して生きる力に変えてゆける人だわ……ヴィルとは違う……わたしにはヴィルもあなたもどちらも大切な人だから、愛しているから、二人とも生きて、幸せになってほしかった。だからわたしはあなたに憎まれることを選んだの……あなたに、ヴィルと生きるわたしへの憎しみを糧にしてでも生き続けて欲しかった。生きていてくれさえすれば、いつかまた三人で笑い合える日が来るかもしれないと思いたかったから……でも結局わたしのしたことは最悪の結果を招いただけだったのね……ごめんなさいヴィル、ごめんなさい、リヒャルト……わたしを許さないで……ごめんなさい……」
リヒャルトがよろけながら立ち上がると、不恰好に右足を引き摺りながらエレノアのそばに立った。そしておずおずとエレノアの顔に手を伸ばしてそっと抱きしめた。
ヴィルを殺した自分がエレノアに触れることなど許されないかとは思ったが、意外にもエレノアは涙を流しながら黙ってリヒャルトの胸に抱かれていた。
「君を憎み続けることなどできるものか、エレノア……僕が愚かだったんだ……とうの昔に君のことを許していたのに、自分を憐れむあまりに伝えられなかった……。ヴィルだって……たった一人の兄に、僕はなんということを……謝るのは僕だ、ごめんよ、エレノア……ごめん……ヴィル……やはり僕はここへ帰って来てはいけなかったんだ。僕が全てを壊したんだ……」
エレノアがゆっくりと首を横に振り、リヒャルトに縋りつきながらくぐもった声で答えた。
「私達、どうすれば良かったのかしらね……でもリヒャルト、わたしはあなたに帰って来て欲しかったわ、ずっと。……ヴィルになりすます必要なんてなかったのに。……たとえあなたがヴィルに手をかけてしまっていたとしても、あなたはあなたのままで、リヒャルトのままで帰って来てくれれば良かったのよ。あなたは馬鹿よ、リヒャルト……あなたはヴィルだけじゃなく、リヒャルトまで自らの手で殺してしまったのよ。そんなこと、誰も望んでいなかったのに……」
ヴィルヘルムとリヒャルト、そしてエレノア。この三人が過ごした数年の間に戦争が存在しなかったら、あるいは結果は変わっていたかもしれない。だがあまりにもボタンの掛け違いが多すぎて、もはやお互いに何を言ってもどれだけ後悔しても無駄なことは明らかだった。
それでもリヒャルトにはもう一つだけ、エレノアに言わねばならないことがあった。
「本当はここへ帰って来た翌日の朝、やっぱり全て真実を打ち明けて裁きを受けようと思っていたんだ。でもできなかった。……あの子を、マクシミリアンを一目見た時、彼がこんなにも会いたいと願っていた父親を、叔父の僕が殺してしまったなんて言えるものかと思ってしまったんだよ。だからヴィルとして父親になろうとした。所詮そんなこと無理だったのにね……ヴィルはどれほど息子に会いたかっただろう……」
唐突に奇妙な沈黙が流れた。
やがてエレノアはリヒャルトを真っ直ぐに見つめ、こう言ったのだった。
「あの子はあなたの子よ、リヒャルト」