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第22話 叔父アイザック

 エレノアが少し冷静さを取り戻し、食卓の椅子に腰掛けるのを待って、リヒャルトが静かに尋ねた。


「ずっと、納得できなかったんだ。エレノア、なぜあの時、しばらく手紙を寄越さなくなったんだ? そして、どうして急にヴィルと結婚したんだ? 何か理由があったんじゃないのか?……僕には、君が言うようにただ男爵夫人になりたかったから、だけとはどうしても思えない」


 エレノアは両目に溜まった涙が溢れないように、天井に視線を向けながら話し始めた。


「あなたが帝都に行って2年経った頃……パパが、詐欺に遭ったの」

「何だって? アイザック叔父さんが?」

「ええ……その少し前に、大奥様が……」

「母さんがどうしたっていうんだ?」


 元々の発端はヒルデガルド男爵夫人の、皇帝陛下への病的ともいえる忠心だった。


「その年の初めに、皇帝陛下の名のついた国債が売りに出されたの。エドガーお義父様はいつ戦争になるか分からないし、そうなったらたぶん帝国は負けるだろうと冷静に読んでいらしたから、買おうとはなさらなかった。でも大奥様が皇帝陛下の御心に背くなど言語道断だと譲らなくて、こっそり預金を引き出しては多額の国債を買っていたの。それが暴落して、アッシェンバッハ家は資産の殆どを失ってしまった……」


 リヒャルトは予想を遥かに上回る真実の重さに愕然とするだけだった。

「まさかそんなことが……知らなかった……」

「ヴィルが、あなたには知らせるなって。もしこのことを知ったら、リヒャルトは学校を辞めてうちに帰って来ようとするだろう、そしたら2年間の努力が無駄になってしまう、弟にそんな辛い選択はさせられない、と」


 食卓に置かれたままのナプキンをぎゅっと握りしめるエレノアの姿がリヒャルトの目に映った。


「でも、それとアイザック叔父さんの詐欺にどういう関係が?」


 エレノアは小さな溜息をつくと、呆れたように少し笑ってこう答えた。


「パパはエドガーお義父様を助けたかったの。それと……大奥様に認められたかったのよ」


 幼いエレノアを連れてアッシェンバッハ領に戻って来て以来ずっと、アイザックはヒルデガルドに蔑まれ続けていた。そもそも後妻の連れ子の分際でアッシェンバッハの姓を名乗るだけでも図々しいのに、あまつさえドサ周りの女優のような卑しい女に入れあげて子供まで作るなど、とんでもない恥さらしだと。アイザック自身がそう言われるのはまだ耐えられたが、娘のエレノアの容姿まであげつらわれるのは流石に我慢ならなかった。


「だからパパは失った財産を少しでも取り戻して、大奥様に認めてもらおうと必死だったのね。そこに付け込まれてしまったのだけれど……」


 アイザックはアッシェンバッハ領の農地監督で、収穫された小麦の売買の責任者でもあった。その年、一人の仲買人がアイザックのもとを訪れた。彼は自分に取引を任せてもらえるなら、時価の3割以上の高値でこの小麦を売れると言葉巧みにアイザックに持ち掛けたのだった。そしてその話を信じたアイザックは雀の涙ほどの手付金と引き換えに、収穫された小麦の半分をその男に渡してしまった。だがその仲買人は小麦をアッシェンバッハ領の駅で貨車に積み込むと……そのまま消えてしまった。

 騙されたと気づいた時には、既に事前に申告してあった租税の支払いが迫っていた。残りの半分の小麦を売ってなんとか租税の支払いに充てることはできたが、小作人に支払う小作料には到底足りなかった。アイザックは途方に暮れた。


「パパは死んで兄さんに詫びると言ったわ。でもそんなことをして何の解決になるというの?……だからわたしは勇気を振り絞ってヴィルに全部話したの。その時はパパが詐欺の片割れとして警察に突き出されても仕方ないと思っていたわ。でもヴィルの答えは違った」


「……ヴィルは叔父さんを助けたんだね。でもどうやって? 財産の殆どを失くしてしまっていたんだろう?」


 リヒャルトの至極当然な問いかけに、エレノアは小さく頷いた。


「ヴィルはエドガーお義父様に正直に話そうと言ったの。お義父様は許してくれたわ。大奥様を止められなかった自分の責任だと……。そして、ヴィルとリヒャルトが生まれた時に皇帝陛下から内々に下賜されたお金があるから、それを充てればいいと言って下さったの。皇帝陛下は大奥様の性格を分かっていらしたのね。隠しておくように、と仰ったそうよ」

「……そんな金があったなんて、ちっとも知らなかったよ」

「ええ。皇帝陛下とエドガーお義父様だけの秘密だったのですって」


 だがその時、リヒャルトの胸にまたどす黒い疑惑が生まれた。こんなことを言ってもお互いに鋭いガラスのかけらで胸を抉り合うだけだと分かってはいても、どうしても口にせずにはいられなかった。


「そうか、つまりヴィルはアイザック叔父さんを助けることをエサに君に結婚を申し込んだんだな」

「それは違うわ、リヒャルト」


 涙声だがきっぱりとした口調で即座に否定されて、リヒャルトはうっと言葉に詰まった。エレノアは一言一言噛み締めるようにリヒャルトに真実を告げた。


「ヴィルははっきり言ったわ。僕はアイザック叔父さんを助けたいんだって。叔父さんのことが大好きだから助けたいだけなんだ、って」

「それはどういう意味だ?」


 エレノアは再び涙がこぼれ落ちないように顔を天井のほうに向けながら、絞り出すような声で言った。


「ヴィルは……ヴィルはこう言ったの」

 ヴィルヘルムが自嘲めいた笑みをたたえながら言った言葉が蘇る。


『子供の頃から、いつもリヒャルトばかりが皆の注目を集めていた。勉強も遊びも、何をやっても僕はリヒャルトに勝てなかった。健康な身体さえも。父さんや母さんまで、リヒャルトが長男だったら良かったのにと言っていたんだ。……でもアイザック叔父さんだけは僕のことを認めてくれた。強いだけでは人の上には立てない、領主としてこの土地を治めていくには思いやりと慈悲の心が必要だ、ヴィルヘルム坊っちゃまにはそれがある、だから自信をお持ちなさい、とね。僕をそんなふうに見てくれていたアイザック叔父さんを見捨てることなどできないよ』


 何とも形容し難い沈黙が流れた。


「は、ははは……はは……僕はヴィルにそんなふうに思われていたのか。参ったな」


 突然、リヒャルトの語尾が崩れて涙声になったことに気づいたエレノアははっとして視線を戻した。リヒャルトの顔が歪んでいた。


「……勝てなかったのは僕のほうだよ。全て持っていたのはヴィルじゃないか。父さんと母さんの愛も、次期男爵としての約束された未来も。同じ日に生まれた同じ顔をした双子なのに、僕が何も思わなかったというのか……僕は幼い頃から否が応でも自力で生きていく術を探さなければならなかったのに……」

「だからヴィルになろうと思ったのね?」


 リヒャルトは力無く頷き、その後ゆっくりと顔を上げてエレノアを真っ正面から見つめた。


「じゃあエレノア、君は自分の意思でヴィルと結婚したんだね……?」


 エレノアも涙に濡れた蜂蜜色の瞳でリヒャルトを真っ直ぐに見つめて答えた。


「ええ、そうよ」




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