「マクシミリアンがいないと、この家は静かだね」
誰に聞かせるでもなしに、唐突にヴィルが呟いた。
「え? あ、そうね……あの子大丈夫かしら、迷子になったりしてないかしら」
「マリアンヌ先生がついてて下さるから心配いらないよ」
エレノアはついに根負けしてマクシミリアンを首都へ行かせた。マリアンヌ先生が所用で首都に行くことになり、どうせだから一緒にと強く勧められたのだった。父が会うのを楽しみにしている、新学期が始まる前にどうしても一度……そう熱心に勧めて下さったし、マクシミリアンも熱望した。ということで二人は昨日の朝、アッシェンバッハ領から汽車に乗って首都へ向かった。帰りは明日の午後になるだろう。
夕食後、大奥様は部屋へ戻り、食堂にいるのはヴィルとエレノアの二人だけになった。ヴィルは紅茶の香りを楽しんでいるようだったが、どこか常に何かを気にしているような空気を漂わせていた。
口を開いたのはエレノアだった。
「
「何だい?」
エレノアは一つ大きく呼吸をすると、ゆっくりと一言一言噛み締めるようにヴィルに告げた。
「……あなたはヴィルじゃない、リヒャルトね」
ヴィルがカップを持ったまま固まり、手が小刻みに震えだした。何を突拍子もないことを、と笑い飛ばそうとするが口元が引きつってうまく言葉が出てこない。
「な……にを言い出すんだ、エレノア……? 僕が、リヒャルトだって……? 冗談は止してくれよ……」
「……いいえ、冗談ではないわ」
エレノアは目の前にいるヴィル、いやリヒャルトを真っすぐに見つめながら再び繰り返した。
「あなたはリヒャルトよ」
エレノアの言葉が遮られる。
「違う! 僕はヴィルヘルムだ!」
「いいえ、ヴィルヘルムではないわ。もう認めて頂戴、リヒャル……」
「馬鹿な! そんなはずはない! 僕はヴィルヘルムだ! エレノア、君の夫の……」
「もう止めて、リヒャルト! もういいの……もう終わりにしましょう。もういいのよ……お願い、本当のことを言って……」
なおも否定しようと立ち上がって大声をあげるリヒャルトをエレノアの悲痛な叫びが制すると、遂に
永遠かと思われる沈黙が続き、やがてリヒャルトが諦めたような声で呟いた。
「なぜなんだ、エレノア……なぜ僕がヴィルじゃなくリヒャルトだと……いつ分かったんだ……」
顔を背けたエレノアの両目が涙で膨らみ、言葉が絞り出すような響きになる。これを言ってしまったら、もう後には戻れない。でも、言わなければ。このまま疑惑を抱えたままこの人と生きていくことは、わたしにはできない。ああヴィル、あなたはきっと……
「帰って来たその日からよ……」
「な……んだって……? じゃあ君はずっと……は、ははは……そうだったのか……参ったな……は、ははは……」
まるで自分自身に呆れているかのような乾いた笑いがしばし続いた後、リヒャルトはいくぶん冷静さを取り戻してエレノアに質問したが、彼女の答えは彼を再度絶望させるに足るものだった。
「どうして分かったんだい?」
「パテよ」
「パテ? あの兎のパテが何だって言うんだ?」
「……ヴィルが嫌いなのは兎のパテじゃないの。……鹿肉のパテなのよ……」
思ってもみなかった真実に、リヒャルトの顔が歪む。
「そうか、つまり君は、僕を試したんだね……」
エレノアはリヒャルトから顔を背けたまま、涙が零れ落ちないように天井を向いた。
「そうよ……でも、あなたも私を試したでしょう? 私がどちらの名前を呼ぶのか。ヴィルとして戻って来るつもりだったとしても、もしあの時私があなたをリヒャルトと呼んでいたら、あなたはその時点でリヒャルトに戻ったはずだわ。違う?」
「確かにそうだね……そうか、お互い様という訳だ」
「……それに、兎のパテだけじゃない」
「他に何が?」
エレノアは一瞬迷ってから、リヒャルトが一番聞きたくなかったであろう答えを告げた。
「……抱かれれば分かるわ、夫婦ですもの……」
彼女は全てを明らかにするために、マクシミリアンを首都に行かせたのだった。
幼い息子に悪夢を見せないために。