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第19話 血まみれの英雄*

 国家だろうと家庭だろうと、綻びが入るきっかけはほんの些細なことだったりする。

 ヴィルとマクシミリアン、そしてエレノア……三人の一見良好に見えて実はぎりぎりのバランスを保っていた輪郭を炙り出したのは、一枚の古びた新聞記事だった。


「……ねえ、父さん」


 その日、昼食を済ませた後、マクシミリアンがもじもじと遠慮がちにヴィルに声をかけた。

「どうした、マックス?」

 ヴィルのマクシミリアンにかける声が穏やかで優しいことにエレノアは安堵する。


 だが、マクシミリアンがおずおずと差し出した紙切れを見た瞬間、ヴィルの顔色がさっと変わった。


「これ、父さんなの?」


「……どこで見つけたんだ? これを?」


 さっきまでとは打って変わった怒気を隠し切れない声に、マクシミリアンの表情に怯えが混じる。


「も、貰ったの、ダーヴィトに……ダーヴィトのお父さんが、アッシェンバッハ領の誉れだ、って……」


「……何だと?」

「ヴィル、どうしたの? 落ち着いて。マックス、それを見せて。何を貰ったのか母さんに話しなさい」


 今にも泣き出しそうに口をへの字に曲げたマクシミリアンの震える手が差し出したのは、古びて黄ばんだ新聞の切り抜きだった。

 ……そこに写っていたのは、飛行機の操縦席に座るリヒャルト。そして見出しにはこう書かれていた。


『若き撃墜王、帝国を救う』


「これは……」

 思わず言葉を失ったエレノアに、マクシミリアンが消え入りそうな声で呟いた。


「……この人は、父さんじゃないの……?」


 エレノアはゆっくりとマクシミリアンに近づくとしゃがみ込み、目線を合わせて諭すように言った。


「この人はね、マックス。父さんの弟のリヒャルト叔父さんよ。前に話したでしょう? 父さんは双子の兄弟で、リヒャルト叔父さんとそっくりなんだって。ダーヴィトのお父さんはきっと間違えたのね」

「ご、ごめんなさい、僕……僕……父さんは新聞に載るほどすごい人なんだって、嬉しくて、つい……」


 目に涙をいっぱいに溜めて途切れ途切れに言葉を繋ぐマクシミリアンをエレノアはぎゅっと抱きしめた。そして明るい声をかけた。


「大丈夫よ。マックスはそんなにも父さんのことが好きなのね。でも、もう戦争中のことを話すのは止めましょう。あなたは小さかったから何があったのか覚えていないし、父さんも辛いのよ。ね? 分かってあげて? さあ、父さんにごめんなさいを……」


 ダンッ!!


 エレノアの言葉は全部言い終わる前に鈍い音で遮られた。振り向くとヴィルヘルムがテーブルに思い切り拳を叩きつけてわなわなと震えている。その目には怒りが滾っていて、咄嗟にエレノアはヴィルから隠すようにマクシミリアンの前に立ち塞がった。


「……ヴィル? どうしたの? あなた最近変よ。辛い記憶を思い出させてしまったのは悪かったわ。でも……」

「……辛い記憶、だって……? 君に何が分かると言うんだ……? あの戦場で何があったか、その場にいなかった人間に何が分かる……?」

「待ってヴィル、落ち着いて」

「落ち着け、だって? ああ、僕は落ち着いてるよ。……何が撃墜王だ、こいつはただの人殺しだ! こいつの両手は……血まみれなんだよ!」

「……止めて! もう止めて、ヴィル」


 ついに堪え切れずしくしくと泣き出したマクシミリアンの頭を撫でながら必死で落ち着くよう声をかけるエレノアを無視して、ヴィルは吐き捨てるように叫ぶと食堂を出て行った。

 右脚を引き摺る歪な足音を二人の耳に残して。


「う……ひっく……ごめんなさい、母さん……う……っ……」

「いいのよマックス、謝らなくていいの。あなたは悪くない。大丈夫よ」

「でも……父さん、もう僕のこと嫌いになったよね……」

「何を言うの。そんな訳ないでしょう。父さんは少し気が昂っていただけよ。落ち着いたらきっとあなたと仲直りしてくれるわ。母さんがきちんと話しておくから心配しないで。……大丈夫だったら。もう泣かないの。さ、今日はマリアンヌ先生のお稽古の日でしょ? 支度をしないと。思いっきりヴァイオリンを弾いて、全部忘れておしまいなさい」


 まだベソをかいている息子を部屋まで送り届けて落ち着かせてから、エレノアはヴィルの姿を探した。


 リヒャルトの新聞記事。撃墜王という見出しとヴィルが言った人殺しという言葉がエレノアの胸の中で渦を巻く。そうだ、敵の飛行機を撃墜したということは、それに乗っていたの命を奪ったことを意味する。……リヒャルトだけじゃない、一歩兵だったヴィルであっても同じだろう。彼が生き残る代わりに、敵であれ味方であれ、誰かが死んだのだ。


 やりきれない、とエレノアは呟く。……あんな人じゃなかった。怒りという感情を前世のどこかに置き忘れたまま産まれて来たような人だったのに、戦場へ行って、彼は変わってしまった。

 人は変わるのよ、と、あの時リヒャルトに言った自分の言葉が、今更ながら胸を抉る。


 それでもエレノアはヴィルと話し合うために彼を探して裏庭へやって来た。裏庭には馬小屋兼納屋がある。とは言ってももう馬もいないし、結局屋根は直せていないままだが。

 納屋の片隅に積まれた藁山の影からくたびれた靴が覗いている。ヴィルだ。どう声を掛けようか考えながら近寄ろうとしたエレノアはふと立ち止まった。……微かに聞こえてくるヴィルの息遣いがどこかおかしい。


 夫が何をしているのか直感で悟ったエレノアは足音を潜め、物陰からこっそりヴィルの様子を窺った。湧き上がる疑念を違う、そうじゃない、と必死に打ち消しながら。


 だが、そこにいたヴィルの姿はエレノアを完全に打ちのめすに十分なものだった。


 ヴィルは藁山にもたれて脚を投げ出して座り、そして……自慰をしていた。

 トラウザーズから飛び出したは大きく、硬く、ここ最近エレノアを悩ませ狂わせてきたものとは全く違っていた。片手を忙しなく上下させ、視線は斜め上を凝視している。やがて眉間に皺がぐうっと寄り、一際息遣いが荒くなったかと思うと短くくぐもった叫びとともにヴィルの腰が跳ね、その後大きな溜息が聞こえてきた。


 ヴィル……ああヴィル……そういうことなのね、のではなかったのね……あなたは自分の意思でそうしていたのね……


 嗚咽を漏らしそうになって、エレノアは慌てて踵を返した。眩暈のせいで視界が霞み、まっすぐ歩けない。それでも何とか書斎にたどり着くとドアを後ろ手に閉めてそのまま立ち尽くした。


 ヴィル……全て分かったわ……あなたはきっと……ああ、私はどうすればいいの……なぜわたしはこんなにも冷静なの……いっそ狂ってしまえたら、どんなに楽だろう……


 戦争が始まる前の、いや、物心ついた幼い子供の頃からの記憶が怒涛のように押し寄せる。止めどなく溢れる涙に濡れた瞳でふと窓の外に視線をやると、崖の上のマルベリーの大木が強風に煽られて激しく葉を揺らしていた。


 役者と舞台は揃った。

 あとは悲劇の幕が上がる刻を待つだけだった。














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