「……ヴィル……ヴィル?」
エレノアに肩を軽く叩かれながら名前を呼ばれたヴィルははっと顔を上げた。
目の前でエレノアが顔を覗き込んでいる。
「あ……ああ、ごめんエレノア……ぼうっとしていた」
「大丈夫?」
明るく尋ねてはみたものの、エレノアの心の奥にまたか、という砂を噛むような感情が広がった。
ヴィルの怪我は右脚の火傷だけではなかった。爆風で吹き飛ばされた時に頭を強く打ったせいで、記憶が混濁している部分があるのだという。子供の頃の記憶は鮮明にあるのだが、出征前から負傷するまでの数年間のことを思い出そうとすると視界がぼんやりして考えが纏まらないのだそうだ。
出征前の数年間て、わたしと結婚した頃じゃない……と、この時ばかりは流石にエレノアも酷く落ち込んだものだ。神様は、どうしてこんなに意地悪なの、と。……エレノアとの結婚生活はヴィルの人生からまばらに抜け落ちてしまっていた。結婚式の記憶もあやふやだった。エドガーがマルベリーのリキュールを飲みすぎてテーブルで眠りこけてしまったことも、アイザックがアンナにダンスを申し込んでアンナが真っ赤になったことも……それから大奥様がいつも以上に皇帝陛下にお手紙を書くと張り切っていたことも。それらは全部、エレノアが記憶の糸を手繰りながらそれとなく水を向けてようやくヴィルは、ああそんなこともあったね、と笑ったのだ。
だが期せずして同時にそれは、この男が間違いなくヴィルヘルムであることの証にもなった。エレノアは駅で会ったあの復員兵の言葉を思い出す。彼はこう言った。
「脚に酷い火傷を負って、意識がなかった。あと頭も打っていたようで、うわ言を言っていたよ」
彼の記憶とヴィルの怪我の具合はぴたりと合致している。エレノアはどこかほっとしている自分を認めざるを得なかった。
実はエレノアはあの大雨の夜、
ヴィルの右の太腿には小さな、しかしはっきりとした傷痕があった。結婚してすぐの頃、苦手な乗馬を無理して落馬し、運悪くそこにあった尖った枯れ枝で太腿を切ったのだ。
……あの傷があれば、彼は間違いなく私の夫。エレノアは賭けた。
だがあの日、浴室でヴィルの火傷の痕を目の当たりにして、エレノアは自分がどれだけ愚かで邪な人間だったのかを思い知った。それほどまでに酷い傷痕だった。エレノアはすぐさま一瞬でもヴィルを疑ったことを恥じた。
それなのに、なぜ、とエレノアは考える。何だろう、この日ごとに増してゆく違和感は。
ここ数日、ヴィルは崖の上のマルベリーの大木の下で座り込んでいることが多い。あの脚で坂道を登るのは大変だろうに、何かに取り憑かれたかのように松葉杖を引きずりながら屋敷を出て行くのだ。そしてエレノアが迎えに行くまで、何時間でも黙って石のように座っている。
目を細めながら、エレノアは視線を移す。あのマルベリーの大木は、いつからここに生えているのだろう。その根元に足を投げ出しているヴィルを見るたびに、エレノアは同じ顔をしたもう一人の男を思い出さずにはいられない。あの日、あの木の下であったことの全てを、あの夏の陽射しに灼かれながら心と身体に刻みつけられた、一生消えない罪と歓びの証を。
エレノアは期待していたのだ。ヴィルが戻って来てくれたら、きっと楽になる。男爵家のことも、お金のことも、マクシミリアンの将来のことも、大奥様のことも。全部肩代わりしてくれなんて言わない、でもせめて、一緒に背負うと言ってくれるでしょ、ねえヴィル? だってアッシェンバッハ家の当主はあなたなのよ?……もうわたし、疲れたの。もう一人で全部背負うのは、辛いのよ。あなたはわたしの夫でしょう、ヴィル?
お願い、答えて。
……だが、ヴィルは何もしようとしない。復員してから一ヶ月近くになるが、相変わらず男爵家は問題が山積したままだ。そして夜も同じことが繰り返されている。ヴィルの執拗な愛撫と、時折見せるどこまでも昏く沈んだ青い瞳に、エレノアは恐怖すら感じるようになっていた。
「そろそろマックスが戻って来る頃よ。屋敷に戻りましょ、あの子、自分が帰って来た時には必ず父さんが出迎えてくれなきゃ嫌なんですって。……ああもう、ここは眩しすぎるわね。ヴィル、あまり長時間いると、日に焼けてしまうわよ」
殊更に明るく言いながらヴィルの手を取って助け起こすのと同時に、ざあっと風が吹いて二人は思わず少しよろけた。はっと顔を見合わせたエレノアに、ヴィルは静かにこう言った。
「エレノア、マルベリーの花言葉を知ってるかい?」
「彼女の全てが好き、じゃなかったかしら?」
「もう一つあるんだよ」
「?」
「……ともに死のう、だ」
エレノアは背筋が寒くなるのを自分でもはっきりと感じたが、ありったけの分別を振り絞って聞き流す振りをした。
「いやあねヴィルったら。止して頂戴、縁起でもない。わたしたちの人生はこれからじゃないの。あなたとマックスと三人で、新しく始めるのよ。さ、戻りましょう」