アッシェンバッハ家の庭に、マクシミリアンの弾んだ声とヴァイオリンの音色が響き渡る。
「ねえ父さん、昨日習った曲、聴いて?」
エレノア以外の誰もが……いやもしかしたらエレノア自身も諦めかけていたヴィルヘルムの帰還の翌日、父と息子は対面を果たした。
眠い目をこすりながら起きてきたマクシミリアンは、食堂に入ってすぐに母と祖母以外の大人、それも男性が食卓についているという、いつもと違う光景に気がついた。だが、エレノアが状況を説明しようとする間もなく、彼はヴィルヘルムに飛びついてこう言ったのだ。
「……父さん、父さんでしょ? あなたは僕の父さんだよね? 帰って来てくれたんだね! 僕、マクシミリアンだよ!」
ヴィルヘルムは黙ったまま、マクシミリアンの背中を撫でていた。泣くでもなく笑うでもなく、ただ黙って。その沈黙が何なのか、エレノアの心を不安がかすめた。だが彼女は考えないことにした。この六年間、息子が何を求め何に涙を流していたのか、母親として理解してはいるつもりだった。だから今、自分の為すべきことは一つだけ、とにかくこの親子が失った絆を改めて手に入れるために手助けすることだと思うことにしたのだ。
あれから二週間あまり、マクシミリアンはもうずっと
初めて会った日、朝食を終えたヴィルが右脚をかばいながら難儀そうに立ち上がるのを見ていたマクシミリアンはこう尋ねた。
「父さん、足が痛いの? 怪我したの?」
「……マックス、いけませ……」
「いいんだよ、エレノア」
ヴィルはマクシミリアンを止めようとしたエレノアを制すと静かに言った。
「マクシミリアン、父さんは戦争で脚に怪我をしたんだ。酷い火傷をしてしまってね。今ではもう杖がないと歩けない。だから……お前が父さんにしてほしいと思っていることも、あんまり叶えてやれないだろう。……ごめんな」
だがマクシミリアンはそんな父にとびきりの笑顔で言ったのだ。
「じゃあ僕、大きくなったらお金をたくさん稼いで、父さんの足を治してあげる!」
それ以来、父と息子の関係は、少しづつ縮まっている……気がする。
反面、夫と妻の間には、なんとも言い難い微妙な空気が流れ始めていた。
あの夜、寝室に移動したヴィルは、かつてないほど激しくエレノアを求めた。
唇を貪り舌を絡め合い、エレノアがブラウスを脱ぐのも待ちきれないといった様子で胸をまさぐりその頂きを擦り上げた。
「あ……っ、あ、あ、ヴィ……ル、そんな……ああ……」
エレノア自身、
「ヴィル……来て……ね……え、はや……く……」
だがヴィルは何も言わず、指と舌でエレノアを責め立て続けた。とっくに限界を迎えて咽び泣くエレノアを押さえつけて身体の奥深くに指を差し入れ、わざといやらしい音が聞こえるように掻き回す。ついに息も絶え絶えになったエレノアは泣きながら懇願した。
「あ、ああ……もうだめ、ヴィル、お願い、来て……わたしの中をあなたで満たして……!」
それを聞いたヴィルはようやくエレノアの両足を自分の肩に乗せ、腰を一気に沈めた。
「あああ……っ……! あっ……あ、あーーーーーっ!」
エレノアの長い髪が激しく揺れ、ヴィルの肩に乗せられた足が跳ねる。
ああ、ヴィル……もっと……もっと奥まで……
「……クソッ……」
「……?」
不意にヴィルが動きを止めた。エレノアの中で、彼の存在感が急速に失われていく。ヴィルは黙ったままエレノアから身体を離すと、ベッドに腰掛けてうなだれた。
「あの……ヴィル……?」
「……ごめん……できないんだ」
「え?……できない……って……?」
何を言っているのかさっぱり分からないエレノアの問いに、ヴィルは怒ったような悲しんでいるような声で答えた。
「だから、できないんだよ……火傷のせいで
「ヴィル……」
エレノアは身体を起こすと、ヴィルの背中にそっと触れた。
「そうだったの……辛かったわね……わたし、なんにも気がつかなくて……」
「ごめん、エレノア……」
エレノアは大きく首を横に振った。
「謝らないで。あなたのせいじゃない。大丈夫よ、あなたがいてくれるだけでいい。わたしは十分幸せよ」
ヴィルは背中を向けたまま答えた。
「ありがとう……」
このヴィルの告白はエレノアにとって衝撃ではあったが、彼女は彼女なりに納得した。もうヴィルとは閨のことはないのだと思うと一抹の寂しさはあったが、受け入れることはできると思っていた。
だが、翌日もその翌日も、ヴィルは毎晩エレノアを求めた。
といっても当然
初めは全てを受け入れてそれなりに満足していたエレノアだったが、やがて何とも言えない感情が胸の奥に溜まってくるのを抑えられなかった。
夫の考えていることが分からない。……何故毎晩あんなにもわたしを弄ぶの。何故分かっているのに
最近はエレノアは無意識のうちに感じているふりをするようになった。早く終わってほしいからだ。そしていつしか、毎晩シーツの下から伸びてくる夫の指にぞっと身体をこわばらせるようになっていた。
今日もエレノアは時計を見て小さな溜息をつく。
……もうすぐ日が暮れる。……夜が来るのが怖い。
あんなにも、もう一度触れたい、触れてほしいと願った男が隣にいるのに。