「今夜は大雨になりそうね。納屋の屋根がもつといいけど」
窓を叩きつける雨の音が次第に激しくなっていくのを聞きながら、エレノアは呟いた。
納屋の屋根か……どうしよう、そろそろ直さないとどうしようもなくなってきてしまったけど、先立つものが、ね……。
小さく溜息をついたエレノアは、書斎机の一番上の引き出しをそっと開けて、革張りのケースを取り出した。ゆっくりと蓋を開ける。
金の台に、真っ赤な珊瑚をあしらった、美しい櫛。だがそれを見るたびに、エレノアの心がじくじくと血を流して痛む。
帝国空軍中尉リヒャルトからの結婚祝いだ。そう言うヴィルからこれを渡された時、箱を開けるエレノアの手は震えていた。中に入っていたのは櫛だけで、カードも何もなかった。相変わらず素っ気ない奴だなとヴィルは笑っていたけど、そのほうがありがたかった。カードに何が書かれていたとしても、エレノアはその内容を直視することはできなかっただろう。
珊瑚は大戦前に帝国が所有していた南洋の小さな島の特産品だった。当然敗戦とともに帝国はその島の領有権を失い、島は原住民の自治領となったが、むしろ今では大戦前より治安が悪化して、珊瑚の流通はガクッと減った。そんなこともあって、連合国の駐屯地の連中の間では、最近、故郷で待つ婚約者への贈り物として珊瑚が人気となり値が上がっているらしい。特にこの櫛のような赤みの濃いものは、去年、国際条約で取引が制限されたとかで特に価値が急騰していると新聞に書いてあった。……だからこれを売れば、相当な現金が手に入るはずだ。それがあれば納屋を直して、最近神経痛が酷いと辛そうにしているマルクスを医者に診せて、それから……マクシミリアンを首都へ連れていく旅費に……。
だがエレノアは静かにケースの蓋を閉じると、元通りに引き出しの奥にしまった。
……これは手放せない。どうしても。これを手放してしまったら、わたしはリヒャルトの怒りから逃げることになる……。
突然、玄関のドアが激しく叩かれる音がエレノアの耳に届いた。アンナと二人で玄関へ向かう。
「こんな大雨の夜遅くに、いったい誰かしら?」
「お気をつけなさいませ、奥様。最近はこのあたりも物騒になりましたから」
ランプを掲げてドアを細く開けると、松葉杖とぼろぼろの軍靴が目に飛び込んできた。
「!!」
まさか……!
「嘘……」
そこに立っていたのは、帰りを待ち続けた人。痩せこけて無精髭が伸びていても、見紛うはずがない、懐かしい顔だ。
だがよろよろと一歩踏み出そうとして、エレノアはふと分からなくなった。
……どっちなの……? ヴィル? それとも……リヒャルト?
アンナも同じく混乱しているらしく、固まったまま目の前の男を凝視するだけで、言葉が出てこないようだ。
その時、男が口を開いた。
「リヒャルトは……リヒャルトは帰ってきたかい?」
「あ……あなた……ヴィル……なのね……? ああ……神様……」
次の瞬間、エレノアはヴィルに縋りつき、その胸に顔を埋めた。
「お帰りなさい……ヴィル……よく、よく無事で……ありがとう、帰ってきてくれたのね……夢ではないのね……ああ……」
だが次の瞬間、はっと気がついて慌ててヴィルを玄関に引き入れる。
「いけない、私ったら! ヴィル、ずぶ濡れだわ。さあ早く中へ! それとアンナ、大奥様にお知らせして頂戴! ヴィルが帰って来たと!」
「ええ、ええ、奥様! すぐに!……大奥様、大奥様! 坊っちゃまが……ヴィルヘルム様が!」
アンナはすぐさま涙声で叫びながら階段を駆け上がっていった。
薄暗い玄関ホールに、松葉杖をつく不規則な音が響く。雨の雫で滑ったのか、ヴィルがバランスを崩して転びそうになった。咄嗟にエレノアが肩を貸して支える。
「……すまない」
「何を言うの。……怪我をしたのね。酷く悪いの?」
「……」
気まずそうに目を逸らしたヴィルの表情に気づいたエレノアは明るい声で言った。
「戻って来てくれただけで十分よ、ヴィル」
痩せこけているとは言え、男の体だ。肩を貸して二階まで階段を登り切る頃にはエレノアはもう息が上がってしまっていた。寝室の椅子にヴィルを座らせると、箪笥から洗濯したてのシャツとトラウザーズを取り出す。だが着替えを手伝おうとしたエレノアにヴィルはこう言った。
「ごめん、傷を見られたくないんだ。自分でやるから、廊下に出ていてくれないかな」
エレノアはぐっと言葉を飲み込んで答えた。
「分かったわ。お腹が空いたでしょう。階下で食事の支度をしているわ。着替えが済んだら降りてきて。……ゆっくりでいいから」
静かにドアを閉めて、廊下にずるずると座り込むと、両手で顔を覆う。
ああ神様、感謝します……
だがその時エレノアの心には、待ち焦がれた夫の帰還への喜びと、そして……微かな疑念が湧き起こっていた。それはまるで、澄み切った水にほんの一滴垂らしたインクが、ゆらりゆらりと拡がってゆくように。