それから二年と半年後。
パイロット養成学校の卒業を控えていたリヒャルトの元に一通の手紙が届いた。
彼は差出人のエレノアという署名を目にしてほっと胸を撫で下ろした。
ここ数ヶ月、リヒャルトが手紙を出しても返事が来ず、何かあったのではないかと気になって仕方なかったのだ。できることなら実家に戻って無事を確かめたかったのだが、卒業前の追い込みで毎日授業と実地訓練がぎっしり詰まっていて、とてもそんな余裕はなかった。
ウキウキと手紙の封を切ったリヒャルトだったが、次第に顔色が変わり、震える手から手紙がはらりと落ちた。
手紙にはこう書かれてあった。
『リヒャルト・フォン=アッシェンバッハ様
先月、ヴィルヘルムと結婚しました。伯父様も大奥様もとても喜んで下さっています。
ごめんなさい、私はパイロットの妻より、男爵夫人として生きたいのです。
不実な私をどうか許して下さい。
エレノア・
「嘘だ! ……嘘だ嘘だ嘘だ!」
リヒャルトは声の限りに叫んだ。
「嘘だ! エレノア、嘘だと言ってくれ! これは何かの間違いだ……嘘だ……」
衝撃のあまり、テーブルを拳で思い切り何度も何度も叩く。目の前が赤くなる。嘘だ。そんなの嘘だ。僕は信じない、絶対に信じない……。
その時、床に落ちた手紙に同封されていた写真に気がついた。それはエレノアとヴィルヘルムの結婚式の写真だった。両親とアイザック叔父さんに挟まれて、白いヴェールとウェディングドレスに身を包み、伏し目がちに立っている花嫁……それは紛れもなくエレノアだった。そしてその横には、自分と同じ顔の男……だがそれはリヒャルトではない、双子の兄ヴィルヘルムだった。
リヒャルトは下宿先の部屋を飛び出すと、両親に向けて電報を打った。
『ヴィルヘルムの結婚について説明求む』
一週間後、父から来た手紙にはこう書かれていた。
ヴィルヘルムのたっての希望でエレノアとの結婚を認めた。
お前はこの二年あまり、一度も
もうお前には期待しない。好きなようにすればいい。
リヒャルトは、やられた……と思った。
確かにヴィルヘルムも自分と同じようにエレノアに想いを寄せていたとしても何らおかしくはない。ずっと、三位一体のように育って来たのだから。それに、リヒャルトとエレノアが想いを確かめ合って結婚の約束をしたとは言っても、それはあくまで当人同士だけの話、しかも十五と十三という年齢ではまだ子供の戯言と思われても仕方ない。
だが今のヴィルヘルムは違う。父から家督を継いだれっきとした男爵だ。一家の当主ともなれば、結婚したい相手がいると言えば相手によほどの問題がない限り、周りは反対することはできないだろう。ヴィルヘルムはそうやってエレノアを手に入れたのだ。
その時リヒャルトは、パイロットとして一人前になってから正々堂々と両親の前でエレノアを妻にすると宣言しようなどという青臭い考えに囚われて、何よりも重要なことを先延ばしにしてしまった自分を心の底から馬鹿だと思った。
だが、なぜ、エレノア……
「パイロットの妻より男爵夫人として生きたい」とは、どういうことだ……?
君は僕を、リヒャルトという人間を好きになってくれたのではなかったのか……? 君が欲しかったのは僕ではなく男爵夫人という地位だったのか? だから同じ顔をしたヴィルヘルムと結婚したのか……? 君は……君は……
「嘘だあああああああああーーーーっ!」
リヒャルトは頭を抱えて絶叫した。
すぐに家に帰ってことの真意を確かめよう。リヒャルトは取るものもとりあえず駅へ走った。
だが中央駅は蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
切符売り場には長蛇の列ができているというのに、駅員が次々に窓口の格子を閉めて回っている。ホームにも人が溢れていてまともに歩けないほどだ。そして新聞の売り子が狂ったように叫んでいる。
「号外! 号外! 大変なことが起こったよ!」
その叫び声を聞くたびに人々の目に不安と怒りと悲痛な色が走る。列車はいつ来るんだと駅員の胸倉を掴んで問い詰めている男もいる。
何が起こったのか分からないリヒャルトは近くにいた紳士に尋ねた。
「何があったのですか? なぜ列車が来ないのですか?」
「お前さん、知らないのか。……皇太子様が暗殺されたんだ。ご視察先で無政府主義者に」
「……え……まさか……では……」
紳士はやり切れないといった表情で答えた。
「……ああ、戦争が始まる……」
これが今世紀最大の悲劇と言われ、大陸のほぼ全土を戦火の渦に巻き込む世界大戦の始まりだった。