二階の突き当たりの部屋のドアの前でエレノアは一瞬立ち止まった。
ひっきりなしに床を杖で打つ音が足元を伝って鈍く響いて来る。
「お呼びですか、大奥様」
「遅いわよ、エレノア」
はあ、という溜息を押し殺して
「申し訳ございません。私もこう見えて忙しいのですよ。で、御用は?」
「決まってるでしょう。手紙は来た?」
またか、とエレノアの気分が一気に白ける。
「いいえ、来ておりませんわ」
「そんなはずはない! お前が隠しているのでしょう! 正直にお言い! 陛下が……皇帝陛下がこのわたくしからの手紙にお返事を出してくれないはずがない! このわたくしに……そんなことあってたまるものですか!」
ヒステリックに叫んで杖と足で床をこれでもかと踏み鳴らす。だがエレノアは平然としている。もう慣れっこだからだ。そして返す言葉も毎回同じだ。
「陛下はお忙しいのでしょう。毎日山のような書簡を処理なさっておいででしょうから。きっと大奥様からのお手紙は侍従の手違いでどこかに紛れ込んでしまったのですよ。最近は宮殿の風紀も乱れているのですね。困ったものですわ」
そうやって巧みに大奥様と呼ばれた老女の怒りを違うほうに誘導していくと、すぐに彼女は乗ってきた。
「ええ、ええ、そうだろうとも! 全く最近の若い者のだらしないことといったら! わたくしが、皇帝陛下の姪のヒルデガルドが宮廷にいたらそんな不心得者の性根などすぐに叩き直してやるのに! ああ忌々しい……そうだ、このことは陛下にご進言申し上げなければ。こうしてはいられないわ」
そうやって一気に捲し立てると彼女はよろよろと机に向かい、鷲と剣を組み合わせた紋章の入った便箋にものすごい勢いでペンを走らせた。かと思うと不意に振り返って黙って立っているエレノアに尊大に言った。
「いつまでそうやって突っ立っているつもりなの? 早く仕事に戻りなさい。それと明日この手紙を郵便局に持って行くのを忘れないように」
「かしこまりました、大奥様」
エレノアは無表情でお辞儀をして廊下に出ると肩で大きく息をした。
今のところ何とか切り抜けられているけれど、最近、明らかに間隔が短くなってきている。前は一ヶ月に一度だったのに、最近は二週間に一度、この不毛なやり取りが繰り返されているのだ。この先これが十日に一度になり一週間に一度になり三日に一度になり、やがて毎日になるのだろうか。そう考えると
明日になったらいつものように彼女から封筒を渡されて、郵便局に持って行くよう命じられるのだろう。
だがその手紙が皇帝陛下の元へ届くことはない。なぜならエレノアがこっそり燃やしてしまうからだ。
だって……とエレノアは声に出さずに呟く。
大奥様、皇帝陛下はもうどこにもおられないのですよ。
革命とやらが起こって、ご一家全員銃殺されてしまったのですから。