「奥様、只今戻りました」
息を切らしながら部屋に入って来た女中のアンナに声をかけられて、エレノアは書き物机から目線を上げた。
「おかえりアンナ。大変だったでしょう。で、どれぐらい買えた?」
「それが奥様、もう大変なことになっていて。昨日までパン一本で25,000ディレイラだったのが、今日は700,000ディレイラですよ! 一体この国はどうなってしまったんでしょう? 結局買えたのは三本だけでした。買い物籠一杯のお札を持って行ったというのに!」
「700,000ディレイラですって? ……それは困ったわね……」
エレノアのこめかみがキリキリと痛んだ。一日でパン一本の値段が28倍に値上がり……いいや違う、物の値段が上がったのではない、通貨が暴落し続けているのだ。そもそも昨日の25,000ディレイラという値段自体おかしい。ほんの半年前まではパン一本なんて120ディレイラもしなかったのだから。
「それは大変だったわね。ご苦労様。少し休んで頂戴。後でマルクスを寄越してくれる?」
「承知しました、奥様」
アンナが書斎を出ていくと、エレノアは両手で額を支えて溜息をついた。
一体この国はどうなってしまったんでしょう……アンナの言葉が蘇る。
いつまで持ち堪えられるだろう、そろそろ万策尽きかけているのを認めざるを得ない。
(あなた……どこにいるの……もう戦争は三年も前に終わっているのよ……)
机の上に飾られた写真立てに視線をやって、再度大きな溜息をついた時、ドアがノックされてエレノアは我に返った。
「奥様、マルクスでございます」
「どうぞ入って」
ドアが開いて執事のマルクスが書斎に入って来た。
「お呼びでしょうか」
エレノアは立ち上がると書き物机の後ろにある金庫を開け、封筒を取り出してマルクスに渡しながら言った。
「材木工場の株券よ。銀行に行って現金化してきて頂戴」
「奥様! いけません!」
マルクスの悲鳴のような叫びをエレノアは静かに制した。
「いいのよ、これだけは残したかったけどもうどうしようもないの。貴方達の給料ももうずっと払えていな……」
「私どもの給料などどうでも良いのです!」
「そうはいかないわ。それに大奥様に不便はさせられないでしょう? ね、マルクス、何も訊かないで」
「奥様……なぜそういつもご自分を犠牲になさるのです。元はと言えば大奥様が国債などに……」
言いかけたマルクスをエレノアは厳しい声で諌めた。
「無礼ですよ。弁えなさい」
マルクスがうっ、と黙ったその時、二階から屋敷全体が揺れるような勢いで激しく床を踏み鳴らす音と怒号が聞こえてきた。
「エレノア! エレノア!」
「はい! 大奥様、ただいま!」
エレノアは顔を二階に向けて大声で叫ぶとマルクスに向き直って言った。
「いいわね、マルクス。頼んだわよ」
そして足早に書斎を出て行った。