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第2話「残恋歌」

 出会ったのは、高校でのことだった。家が隣なのに、ちょうど学区の境目で、小、中と学校は別々だった。それが高校になって、一緒になった。

 近いようで遠い存在だった。なんて言うんだろう。存在があやふやというか曖昧というか。俺が見ているのは幻影で、触れようとすると消えてしまいそうな不安定さがある。

 それも、そいつの持つ「病気」のせいだろう。

 この世界には原因不明、治療法不明の病気がたくさんある。その中の一つが「散花病ざんかびょう」だ。

 隣の家同士、嫌でもその情報は入ってきた。大体同じ時間に別々の学校に登校していたから、時々その後ろ姿を見ていた。体からひらりひらりと舞い落ちるオレンジ色の花びら。夏の終わり辺りにそこいらに咲いている花と同じ色だ。最近、キバナコスモスというのだと知った。

 散花病とは、命が花びらとなって少しずつ散っていく病気らしい。原因は不明。治療法もない。テレビや新聞なんかでは「現代で治療法を開発するのは難しい」とか言っている。それならタイムスリップでもすればできるのか? それとも来世にでも期待してくれというなげやりか?

 いずれにせよ、そういう記事は医学の怠慢だと思う。

「へえ、君、医者になりたいの?」

「あ、返せ」

 そいつにつまみ上げられた進路希望書。そこには医大の名前がつらつらと連ねられている。もちろん、俺の進路希望だ。

 不治の病とか言って、終わらせる医者なんか嫌いだ。それなら俺が医者になって、医者の諦め思考を根本から変えてやる。そういう意気込みの進路希望だ。

 だってそうだろう? 残花病のやつは花びらが舞うたびに寿命が減る。人より長く生きられない。そういう病気にかかっただけで人生の終わりが決まるなんて、あまりにも理不尽じゃないか。

 こいつが、二十歳まで生きられない、明日生きているかもわからない、なんて。

 俺の進路希望を見て、呑気にのほほんと笑うそいつは、もう医者から余命宣告を受けている。二十歳を迎えることはない、と。大人になれずに死んでいく。

 そりゃ、大人になることが一概にいいことばかりとは限らないが、限られた命が短すぎる。こいつが一体何をしたっていうんだ。

「もしかして、僕のため?」

 俺は渋い顔をした。

「……とても間に合わんだろう」

 それは認めるしかなかった。

 頭は悪くはない。だが、飛び抜けていいわけでもない。そんなやつが医学を発展させるために何年かかるか。残花病を理不尽だと思うが、時間は残酷で、現実だけを突きつけてくる。

 俺が大学に入るのは高校を卒業してから。俺の頭がよければ、海外の大学に飛び級でもして入れただろうに。残念ながら、才能はなかった。

「僕のためってことは否定しないんだね」

「間に合わないと言っているだろう?」

「でもそれは、僕のためじゃないって言ってるわけじゃないよね?」

 言葉尻を取るのが上手いやつだ。

 こいつはとても頭がいい。残花病とかそんなこと関係ないくらいに才色兼備だ。俺がこいつだったなら、海外に飛び級でもなんでもできただろう。

 だが、残花病なのはこいつで、俺は凡人だ。どうして現実ってのはこう残忍に牙を剥くのだろうか。

「僕、知ってるよ」

「何を?」

「君は本当は、小説家になりたいって」

 ひら、と眦からオレンジの花びらが落ちた。もはやはたらかないこいつの涙腺の代わりのように。

 その美しいはずの光景に、俺はといえば、肝を冷やして、悪寒を覚えていた。散る花びらは、こいつが頬杖を突いている机に触れる前に消えた。

「どうしたの? 顔色悪いよ?」

 顔色も悪くなるだろう。人の寿命が縮む瞬間を形あるものとして目で捉えたのだ。こいつ自身はもう自分の体から花びらが生まれることに何の違和感も抱いていない。それが幼い頃からの日常だったのだから。けれど、俺は違う。何度見たって慣れない。

 こいつの体が花びらとなって散るということは、こいつの余命が刻一刻と迫る、ということだ。……こいつが指摘した通り、俺が医者を志すのは、こいつの病を治すためだ。こいつ以外にも、残花病に苦しむやつはいるけれど、身近にいるからこそ、病の影響をひしひしと感じるのだ。

 それなのにこいつといえば、いつものほほんと笑って、なんでも片手間でこなし、「薄命の貴公子」とか失礼千万の渾名で呼ばれても、嫌そうにするどころか嬉しそうですらある。おかしいだろう。

 なんで幸せそうなんだよ。あと何年かで死ぬんだぞ? もしかしたら明日。何の未練もないみたいな顔、なんでできんだよ? 人間、何十年かかっても夢を実現できなかったりするんだぜ? なんで、余命幾何かのお前が、笑っていられるんだ。

「……何、泣いてるの?」

「は?」

「涙」

 そいつの色の失われた指が、俺の頬を掬う。雨滴のようにつ、と伝ったのは、俺の涙だった。

 気づけばぼろぼろぼろぼろと。ゲリラ豪雨でも来たかのように突然止まなくなる。なんで、なんで、と自分のことなのに、理解に苦しむ。

 そいつは掬った雨滴をあろうことかぱくりと食べてしまった。細長い指は口に含まれ、今にも棒菓子のようにぱきりと折られそうだ。

 ……なんて、物騒な発想をいつもならするのだが。

 何故だろう。どぉんどぉんと大きな太鼓でも叩いているかのように、心臓が脈打つ。高揚の色を感じた。何故、このタイミングで。

「悔しいんだね」

 その感情の答えに行き着く前に、そいつの言葉が入ってきた。まるで、体に染み入るような声だった。浸透して、血の巡りの中に交じり合うような。

「悲しいんだね。聞いたことがあるよ。人の涙って、感情ごとに味が違うんだ。涙っていうのは、普通はしょっぱいんだけど、嬉し涙のときは甘くすらある。悲しいときが一般的だから、しょっぱいの。悔しいときは、辛いくらい」

「頭のいい発言をしよって。涙腺と脳の感情を司る部分の話だったか」

 うろ覚えだが。

 で、こいつは俺の涙を舐めた。

「……辛かったか」

「うん。それだけ、僕を救えないことが悔しいんだとしたら……」

 含みのある言い方だ。

「だとしたら?」

「報われたかな」

「は?」

 そいつは幸せそうに笑うばかりで、俺は涙が止まらないまま、理解もできないまま、日常を無為に過ごした。

 なんで笑うのだろうと思う。何が報われたのだろう。お前の寿命は延びるどころか、縮むばかりではないか。

 ほろ、と指が花びらになって溶けていき、オレンジ色の小山が机の上にできる。

 ちょっとだけ悲しそうな顔をして、そいつは言った。

「あら、これじゃあ指切りげんまんできないや」

 誰と何の約束をするつもりだったのだろう? もしくは、旧くの謂われに倣って、駆け落ちでもする気だったか。そういうことをしたい相手がそいつにいることが意外だった。

 いやいや、妄想にも程があるだろう。指切りといって、花魁の駆け落ちを連想する方が難しい。

「あ、今度は薬指」

 呑気に言わないでほしい。それに他人の机に小山を量産しないでほしい。

 けれど依然としてそいつはのほほんとしている。

「結婚指輪が嵌められないや」

「結婚するまで生きるのか?」

「十八になればできるでしょ?」

「法的にはな」

 やっぱりこいつも、一端の男なりに恋とかするのか。当てはありそうだな。それはもうごまんと。

 こいつの優しい顔立ちに女子は寄ってくる。花を散らす姿にすら、ときめきを感じるのだという。病気だから、不謹慎だろうと常々思っている。

「っていうか、十八になるまでまだ一年以上あるぞ」

 こいつは来年まで生きていられるのか? 指を四本も失ったのに。

「結婚したいというか……好きな人に想いは伝えたいよね」

 それを法律が阻んでいるというのなら、俺は法律を恨もうか。それとも、こいつが女じゃないことを恨もうか。女子なら十六で結婚できる。ああ、時代も違ったらもっと早かっただろうか。

 結婚して、好きな人と過ごして、子どもを作って、幸せな家庭を築く。そんな普通のことが、こいつは残花病なばっかりに叶わない。

 当人じゃないのに、俺がものすごく悲しい。そして悔しい。俺が早く生まれていれば、もしくはもっと頭がよかったら、こいつを救う方法を見つけられたのに。

 考え込んでいると、ぽん、と頭を撫でられた。指の欠けた左手で。

「何生き急いでるのさ。君は僕よりずっとずっと長く生きて、僕のように残花病にかかった人を治すんだろ?」

「違う!!」

 俺は思わず叫んだ。感情の迸るままに。

「お前を治せなきゃ、意味がない!! お前の言った通りなんだよ。俺はお前のために医者になりたいんだ。お前の病気を治すためだけに。後世のためにとか、美談めいた話じゃねえんだよ!!」

 叫んで、はっとした。そいつも、呆然としている。

 俺は、こんなこと、思ってたのか。

 すると途端に、そいつの両目からぶわっとオレンジの花びらが溢れて、床にばらばらと散った。洒落っ気のない床がオレンジに彩られる。

 俺は焦りに焦った。おそらく人生で一番困惑した。後にも先にも、こんなにおたおたして落ち着かないことはないだろう。

「な、なんだよ。やめろって。寿命が縮むんだぞ。命が溶けるんだぞ」

「そんなのもう、怖くないよ」

「はあ!? お前が怖くなくたって、俺が怖いんだつーの……ん!?」

 柔らかい花びらのような感触が唇に当たり、ふわりとした中に独特の野性味を持つ香りが鼻腔を擽る。頬に、儚さを宿した手が添えられていて……唇に当たる温度は人とは思えないほど、冷たく、その程よい湿り気は朝露の残った花弁を思わせた。

 キスをしているのだ、というのに気づくまで、かかった時間は何秒だろう。途方もなく長かった気がするし、瞬き一つもしたら終わっていたような短さでもあった。矛盾に支配されたような心地。

 俺はまだ口の中に残る花の香りを惜しむように小さく息を吸った。ふわりと香るその花はこいつの散らす花と同じ。夏に咲いて、いつの間にか秋に散っている、あの花。

「看取られるなら、君がいいと、僕は今心の底から思った」

「……は……」

 間抜けな声しか出ない。そいつの手が、肩が、体の輪郭がオレンジにぼやけていくのを、訳のわからないまま、見つめる。

「ちょ、お前……」

 花が散っている。命が散っていく。こいつの幾何かの余命が、なくなっていく。

「止まれよ、止まれって!!」

「それで治ったら、苦労はないよ」

「そもそも、看取るってなんだよ。縁起でもない」

 そいつは赤が柔らかく、金色を包んだような瞳で、俺を見つめる。

「僕、知ってるんだ」

 顔の輪郭も、次第に溶けていく。

「僕は長くない。先生が親に一ヶ月保つかどうか、なんて話してるの、聞いちゃってさ」

「そ、んな」

「だから僕は、死に場所を探していた。一人で死ぬのは寂しいから、傍にいてくれる人を探したんだ。残花病って、体が全部花びらになって散っちゃうから、死んだかどうかもわからなくなるっていうじゃない? 僕の存在証明をしてくれる人がいないのは、さすがにちょっと怖くてさ」

「や、やめろよ……」

 俺の声は震えていた。

 これ以上、聞きたくないし、見たくない。でも、残花病の最期というのは、聞いていたよりずっと。

「僕、気づいていたよ。君が小さい頃から、学校に行く僕の背中を見てるって。僕を心配してくれてるって。父さんや母さんは、僕がこういう病気だって知ってから、もう僕が死んでしまったかのように扱うんだ。毎日お通夜モードでさ」

 ずっと、はなが煌めいていて、尊い。

「君だけだったんだ。僕を生かすことを諦めないでいてくれたのは。——僕に生きることを許してくれたのは」

 しんしんと降り積もる雪のように、静かに、そいつの言葉は俺の心に降り注いだ。あるいは、花びらのように。

 そうか。そうだよな。こいつだって、なりたくてこんな病気になったわけじゃない。死にたくて死ぬわけじゃないんだ。

「それから、君が愛しくて堪らなくて、本当なら許されない想いまで抱いてしまった。ごめんね、いきなり」

 そいつはもう涙を流しているのか、顔が崩れているのかわからないくらいになっていた。

「身勝手なまま、死んじゃうよ。ごめん、ごめん……せめて、君が僕を治せたっていう、最高の美談を、叶えてあげられればよかった」

 オレンジにまみれたそいつを、俺はそっと抱き寄せた。

 花びらで散りかけた耳にそっと囁く。

「許すよ」

 俺もやっとわかった。涙を拭われて、その涙をこいつが口に含んだとき、俺が抱いた感情。

「誰が許さなくても俺が許すよ。文句なんて言わせるものか。これは俺とお前、二人だけの……細やかな、物語だ」

 もう、謝らないでほしい。

 そう思ったのが届いたのか、そいつが小さく、最期に「ありがとう」と残して。遺して逝った気がする。

 抱き寄せた体は全てオレンジの花びらとなって、掻き消えた。

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