「はあ。また君か」
プリントを届けに来た俺の顔を見るなり、盛大な溜め息を吐く彼。付き合いは中学からで、そんなに長くもないけれど、もう名コンビみたいな扱いを受けている。
それもこれも、引きこもりがちのこいつに何かにつけて俺が世話を焼くからだろう。出会いは中学の体育館裏。同じクラスでもないこいつと知り合うことになったのは、こいつがいじめられているのを俺が見過ごせなかったからだ。
自傷しているだの、オタクだの、根暗だの、いじめる理由がちゃちすぎて、馬鹿じゃないのか、と思った。自傷して何が悪い? 他人を傷つけるよりよっぽどましだろう。オタクの何が悪い? 誰かに自分の好きなものを押しつけているのなら問題だが、自分の好きなものを好きだと公言できるなんて、かっこいいじゃないか。根が暗い? それがどうしたというんだ。個性だろう。
そうやって正論をぶつけて追い返してやる。蜘蛛の子を散らすように逃げた同学年のガキ共の滑稽さがあまりにもつまらなくて、鼻を鳴らした俺に、こいつはありがとうとか余計なお世話とかなんでもなく。
「真っ直ぐだね。杉みたいだ」
よくわからない比喩を向けた。
まあ、真っ直ぐというのは好印象な言葉だし、俺は気にしなかった。
その次の年から、同じクラスになった。俺が一回追い返したくらいじゃいじめっ子はへこたれず、こいつは「学校に行くのが面倒くさい。行く意味がわからない」と宣って、登校拒否をするようになった。
誰かそいつの家にプリントを届けてくれ、という先生からの呼び掛けに誰一人として挙手しなかった。俺はじゃあ俺がやります、と手を挙げた。
俺は何事も自分から進んでやるタイプではないと自覚している。周りの様子を伺って、誰もやりたくないようなら、俺がやる。誰も損をしないやり方だと自負している。
「バッカじゃないの?」
そいつには、鼻であしらわれたが。
「君がそういうやつだって、みんなわかっているから、誰も挙手しないんだよ。そうしたら、面倒事、全部君が片付けてくれるからね。そんなこともわからないのかい?」
家に上げてくれた割に、機嫌が悪い。たぶん、今日も懲りずに俺がやってきたことを内心、疎ましく思っているのだろう。
俺は愚直と言われると否定はできないが、無神経ではないのだ。人が何をどう考えて発言しているかくらいは読み取れる。
故に、俺は自分の主義からこう答える。
「面倒事を溜めておく方がもっと面倒なことになるんだよ。悪循環は好きじゃないからな」
はあ、とまた溜め息を吐く彼。気を紛らすようにリンゴの皮を剥いている。
俺を変わったやつみたいに言うけれど、それを言ったらこいつだってなかなかなものだと思う。
登校拒否をしていたやつが、今は俺と同じ高校の生徒だ。つまり、高校受験をしたわけである。学校嫌いそうなのに、とても意外だった。合格発表を一緒き見に行って、「あった、僕の番号」と言われるまで俺は信じられなかった。
で、懲りもせずまた登校拒否して引きこもり。俺は例によってこいつの家に寄る、という面倒事を押しつけられているわけである。
別にこいつと会うのは苦じゃないからいいのだが。むしろこいつのどこが悪くてみんな近寄りがたく思っているのかがわからない。
「相変わらず、むかつくやつだね」
「そうか?」
「なんでお前みたいなやつがいじめに遭わないの? 世界の七不思議レベルなんだけど」
「何だよ、世界の七不思議って」
俺が苦笑すると、そいつは手元が狂ったようで、薄く剥いていたのに、ざく、と果肉の奥まで刃が侵入する。ちっと舌打ちして、そいつはごみ箱にリンゴを投げ捨てようとした。当然阻止する。
「もったいないだろ」
「……」
じと、とした目で睨まれる。いつものことだ。
こいつは俺を嫌っている。煙たく思っているのだ。こうして家に上げてくれはするが、それは厳しい親の手前、体面を保つためにやっていることで、こいつの意思ではない。
申し訳なくは思うが、やはりこいつにプリントを届けに来ないと後々面倒なことになりそうなので、俺は来る。
大衆は誰か一人をぼっちという名の犠牲にすることで、成り立っている。俺はその犠牲に選ばれたのがこいつだから、自分もぼっちの境界線に足を踏み入れた。それだけだ。
「その綺麗事も、君なら他の人相手でも振りかざせるんだろう?」
「うーん、なってみないとわからないけど、とりあえず言えるのは、俺、お前のこと好きだから」
リンゴの皮を剥いていた手がぴたりと止まった。それから、ふと目を離した隙に、リンゴの皮じゃない赤が流れているのに気づいた。
「何、やってんの」
「手が滑った」
いけしゃあしゃあという。どう手が滑ったらリンゴの皮剥きの途中で手首を切るんだ。
こいつが自傷行為をすることは知っていたし、何度か見たこともある。だが、何回見ても血が当然のように手首から滴り落ちる光景は慣れない。す、と背筋を冷たい指でなぞられたような気分になる。
「手当てするぞ。救急箱は箪笥の中だっけ?」
「もうすっかり我が家だな」
「大人しく止血しろ」
こいつは「人間は血液の三分の一を失うと死ぬらしい。本当かどうか確かめるかの実験」などと宣い、切った手首を放置する。傷はそれほど深くはないため、三分の一も失う前に血は止まるのだが、傷は傷。きちんとした手当てを行わないと膿むし、感染症にかかるかもしれない。
短いなりの付き合いで、俺はこいつを心配しているのだ。それをこいつは鼻で笑いながら。
「君みたいだったら、生きるの楽だったろうね」
悲しそうな声を出す。
「リンゴに血ぃついちゃった。ばっちいね」
「気になるんならその部分だけ切ればいいだろう。俺は気にしないし」
ぱくり。そいつが切り分けたリンゴを一欠食べる。普通に美味しい。
何故か溜め息を吐かれた。何回目だろう。
「本当、君って杉みたいだよね」
「……中学のときから、それ何回か聞いてるけど、何?」
杉と例えられる意味が俺にはわからなかった。
俺より少しばかり頭のいいこいつは、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりに朗々と語る。
「何もかにもそのままの意味だよ。杉みたい。杉みたいに真っ直ぐで曲がったりひねくれることを知らない。それでいてナチュラルだ。異分子と思われない」
真っ直ぐという意味だったのか。確かに杉の木材としての強みはその真っ直ぐさだとどこかで聞いた覚えがある。ナチュラルは……自然にかけたのだろうか。
俺はちょっと面白くて、不思議に思った。
「なるほどな。でも、それ愚直って言わない? っていうかお前って俺のこと愚直って言ったことないよな」
そいつが肩を竦める。
「日本語を間違えるほど、落ちぶれちゃいないよ。愚直っていうのは、後先考えずにただ真っ直ぐに進むやつのことを言う。君は理性的だ。愚直ではない」
まあ、そう言われると、確かに。俺は誰かの迷惑にならないように真っ直ぐ進んでいる。それだと、愚直は違うだろう。
「っていうか、君を愚直っていうやつがいるんだね。けしからん」
「まあまあ。言葉一つの意味なんて、なかなか穿って考えるものじゃないよ」
さして深く考えずに言葉とはぺらぺら出てくるものだ。いじめるやつらも言葉の持つ意味、与える影響を深く考えていない。だからこそ言葉に悪意が乗り切らず、いじめなんかしていない、で通ってしまうのだろう。言葉に芯がないから。
実年齢が大人になったところで、精神年齢はそれに比例するわけではないのだから、ガキ相手にガキ臭いことを言うな、というくらい無意味なこととなるのだ。
逆に精神年齢が実年齢を上回ってしまう場合がある。その例がこいつだろう。
「穿って考えない、か」
そう呟いて放心するそいつの傍らで、俺は渋い茶を啜った。
その後に食べたリンゴは甘くて、酸味はちょうどいいアクセントになっていた。
そろそろ帰るか、と立つと、だるそうな蝉の声が聞こえてくる。夏休みが近い。
「夏休み前に一回くらい、学校に顔出せよ」
「どうしようかなー」
「おいおい」
のらりくらりとしたそいつに苦笑いしか零れない。いつものことだから、さして気にしなかった。
だから、驚いた。
「まあ、君が宿題持ってきてくれるなら、夏休みの宿題、一緒に真面目にやるのもいいね」
そんなことを言うなんて、思ってもいなかった。
正直、嬉しかった。今まで「友達」という感覚は俺の一方通行気味だったから。そうか、夏休みの宿題、一緒にやってもいいとか思ってもらえるくらいにはなったか、なんて、ちょっと浮かれた。
だから。
「あの子は病気で亡くなったよ。別に学校にも来ていなかったんだから、いないようなものだろ?」
夏休みの宿題を受け取りに行った終業式の日、担任の口から出た言葉に衝撃を感じた。
「なんだ、お前知らなかったのか。あいつは元々持病を患っていてな。そのせいで心も病んだらしい。親御さんから聞いたが、入院ではなく、自宅療養を希望したらしい。ここだけの話、外聞を気にしてそう吹聴し、本当のところは医療費かかるのが面倒くさかったんだろうよってのが専らの噂だ」
それはそうなのだろう。あいつの親御さんは、高校入学に反対したらしいから。金がかかるからって。
学校のための金を惜しむ親が医療費を惜しまないわけがない。ひどい話だ。
「ともあれ、お前の役目は終わったんだよ。立派なもんじゃないか。誰もやりたがらないのに最後までしっかりやりきった。中学からの付き合いってことで、心情は察するが……お前はよくやったよ」
先生の褒め言葉が思い通りに動くマリオネットを見て満足しているやつの言葉にしか聞こえなくて。俺はただ呆然と、とても小さく、はい、と頷いた。
俺は貯金はたいて買った弔花を抱え、あいつのうちに向かった。おざなりに出迎えられた気がするが、ちゃんと茶が出された。花も受け取ってもらい、線香もつけた。
「うちの子に、本当に友達いたのね」
母親が呟いたそれは俺にもあいつにも失礼だったが、何も言わなかった。そういう人なのだ、と何年も前から知っている。
曰く、俺はただの学校からの小間使いだと思われていたらしい。ただの小間使いにリンゴを剥いて茶を出す変わった息子とでも思っていたのだろうか。
「でも、よかったわ、あなたが来てくれて」
「え?」
自分の息子すらも煙たがる親の口から出た言葉とは思えなかった。俺が不思議そうにしていると、箪笥の引き出しから、母親が封筒を取り出した。
「この手紙の宛先がわかって。もう死んだ子の妄念につきまとわれるなんて、嫌よ」
その言葉はらしかったが。
「手紙? あいつが、俺に?」
「そうよ。自分が死んだ後、友達を名乗るやつが来たら渡してほしいって。たった一つ、あの子が決して譲らなかった我が儘よ。さっさと読んで、帰ってちょうだい」
「はい」
そんな親の対応を不思議と悪し様だとは思わなかった。たった一つだけでも、子どもの我が儘をちゃんと聞いてくれたことに俺は感心した。
それより、手紙の中身だ。
「これからも、杉のように生きてください。杉の葉の花言葉を添えて」
あいつらしい言い回し。俺のことだとわかる。俺のことを杉に例えるのはあいつしかいないし、あいつが杉と例えたのは俺しかいない。宛先間違いではないようだ。
しかし、杉の葉に花言葉なんてあるのか? 花ですらないぞ?
夏休み明け、女子はそういうの好きだろう、と声をかけると、詳しいらしい一人がきゃあ、と黄色い声を上げた。
「何これ、ラブレター?」
「え、なんで?」
すると、鈍いなあ、とからかうように笑んだあと、その女子は俺を手招きした。耳打ちしてくる。
「杉の葉の花言葉は『あなたのために生きる』よ。それが送られたってことはもう愛の告白じゃない」
ああ、そうか。
そういうことなら、俺はお前のために生きよう。そんなことする奇特なやつ、他にはいないだろうからな。
それを聞いた瞬間、すとん、と納まるべきところに適当な感情が納まったのだ。
俺の「好き」はそういう「好き」だったんだ。