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第20話 睡蓮

 睡蓮と雅樹の名前が並んだ離婚届を見た雅次と百合は言葉を失った。睡蓮の左の薬指に結婚指輪は無く、目の前の出来事が事実である事を示していた。


「雅樹、これは如何いう事なの」

「それが、俺も昨日突然」

「私たちが跡継ぎの事を言ったからか?」


 睡蓮は深々と頭を下げ違うとだけ答えた。


「雅樹、睡蓮さんと、あの」

「睡蓮さんと関係が無いというのは本当なのか」


 雅樹は視線をテーブルに落とし小さく頷いた。


「なんで、なんでこんな事に!叶さんとの約束が反故になるじゃ無いか!」


 その言葉に雅樹は父親を凝視し声を荒げた。


「そこが間違いなんだよ!会社が結婚するんじゃない!俺が結婚するんだ!」

「縁談前はどちらでも良いと言っていたじゃ無いか」

「睡蓮の前でそんな事を言うな!」


 睡蓮は膝の上で握り拳を作っていた。


「如何して俺が出張している間に縁談を進めたんだ!」

「それは、ねぇ。睡蓮さんの方が行儀作法が宜しくてーーお仲人さんもそう仰っていたから和田の家風に似合っていると思って」

「俺は家の為に犠牲になったのか!」

「雅樹、おまえこそ睡蓮さんに失礼だろう!」

「ごめん」

「いえ、本当の事ですから」


 気まずい空気の中、母親が口を開いた。


「じゃ、お金の事は如何考えているの?」

「金?」

「慰謝料とか、財産とか」


 百合は息子と嫁の離婚で何はさて置き金銭面を気に掛けている様子だった。


「ーーー母さん!」

「いえ、大切な事ですから」

「睡蓮」


「雅樹さんと話し合った結果、互いに慰謝料は不要という事になりました」

「マンションは如何するの」

「売却して頂いてその金額を分割、財産分与として下さい」

「そ、そう」


 機械的な睡蓮の声。思いの外少額で話が進む事に安堵した百合は離婚届に手を伸ばした。


「証人は如何するの」

「両親でも大丈夫だから父さん、頼む」

「そうか、もう決めたのか」


 睡蓮と雅樹は頷いたが離婚届を見た雅次は怪訝な顔をした。


「この田上伊月とは誰なんだ」

「私の主治医です」

「そうか」

「はい」


 雅次は万年筆を持ち印鑑を捺した。


 睡蓮は白い日傘を閉じた。玄関の扉を開けると閉め切った部屋には熱気が籠り首筋の汗に纏わり付いた。


「暑いわね」


 カーテンを開けると眩しい夏の太陽が灰色のリビングに降り注ぎ、窓を開け放てばポプラ並木のアブラゼミが賑やかしかった。


「あぁ、気持ち良い」


 そよぐ風が澱んでいた気配を撹拌かくはんし睡蓮は深呼吸した。


「お疲れさま」

「ああ」

「そんな顔をしないで、気にはしていないわ」


 和田の義父母が雅樹の嫁に選ぶ相手は叶家のどちらの娘でも良かった。今回は睡蓮が選ばれたがそれは決して本人の気性や個性を気に入っていた訳ではなかった。睡蓮はその事に薄々気付いてはいた。


「雅樹さんも大変だったのね」

「どういう意味」

「なんでもないわ」


 社会的な面子めんつと地位を守る事に躍起な雅次父親、親戚筋の前では体裁を取り繕い見栄を張る百合母親、この2人に嫡男として育てられた雅樹に自由は無かったのだろう。


「麦茶、飲む?」

「飲む」


 お揃いのグラスに注がれる琥珀色の香ばしい麦茶、睡蓮は未開封のままの冬物の衣類などが入った幾つかの段ボールを眺め呟いた。


「開ける必要は無かったわね」

「ごめん」

「そういう意味じゃないのよ、気にしないで」


 水滴が流れ落ちるグラス、2人はリビングテーブルを挟んでお互いの顔を見た。


「初めてかもしれないわ」

「そうだな」

「こうして真っ正面から向かい合って話せば良かったのかしら」

「そうかもしれないな」

「でも、木蓮が私と雅樹さんの心の中にいる限りそれは無理だわ」

「そうだな」


 睡蓮の微笑みは穏やかだった。


「今まで縛り付けてごめんなさい」

「俺も中途半端な事ばかりで申し訳なかった」


 離婚届は叶家に挨拶に行ってから2人で市役所に提出する事に決めた。


「ーーーあ」


 睡蓮がなにかを思い付きテーブルに身を乗り出した。


「雅樹さん、あなたいつかは木蓮と結婚するのよね」

「木蓮には婚約者が居るだろう」

「伊月先生は木蓮との婚約は解消したって言っていたわ」

「まさか」

「ご両親とも話し合ったって」

「それに伊月先生は私と結婚するんだもの、木蓮にはあげないわ」


 雅樹は離婚届も提出していない妻、睡蓮の言葉にどう答えて良いか戸惑った。


「木蓮と雅樹さんが結婚するならに嫁がせたくないわ」

「こんな家って、酷いなぁ」

「こんな世間体や見栄張りの塊に木蓮が押し潰されてしまうなんて許せない」

「木蓮には息苦しいだろうな」


 睡蓮はリビングテーブルを両手で叩いて雅樹に詰め寄った。雅樹はその勢いに気圧された。こんなに生き生きとした睡蓮を見るのは初めてだった。


「叶と和田家が結びつくもう一つの方法があるじゃない!」


 確かに。雅樹は自分では到底思い付かない提案をして来た睡蓮に木蓮の溌剌とした面立ちを重ねた。


「やっぱり双子なんだな」

「そうよ」

「考えそうな事まで同じなんだな」

「そうよ」


 無邪気に笑う睡蓮、この日雅樹はに目を細めた。


 睡蓮と雅樹は菓子折りと離婚届を手に車を降りた。雅樹の顔は強張り無表情、足の動きも不自然で右手と右脚が同時に動いた。駐車スペースには伊月のBMWが駐車していた。


「雅樹さん、そんなに緊張しないで」

「そうだけど」

「もうお父さんとお母さんには話してあるから」

「そうなんだ」

「さっきも言ったでしょう、聞いていなかったの!?」


 離婚を決めた女は強い。すっかり形勢逆転で睡蓮は虎の威厳、雅樹は借りてきた猫状態だった。


「ただいま!」

「あらまぁ、睡蓮さんお久しぶりです。さぁさ、和田さんもお入り下さい」


 お手伝いの田上さんがスリッパを並べてくれたが雅樹は緊張のあまり足を引っ掛け床に倒れ込んだ。その音に驚いた木蓮が顔を出した。


「あんた、なにやってんの!」

「お邪魔します」

「雅樹さん、先に行きますね」


 睡蓮は雅樹に手を貸す事も無く廊下を歩いて行った。玄関の上り口で膝を強打した雅樹は痛みに顔をしかめている。それを仁王立ちで見ていた木蓮は右手を差し出し「掴まって」と眉間に皺を寄せた。


「ありがとう」

「なにあんた、2ヶ月で離婚とか甲斐性無しね」

「誰のせいだと」

「誰のせいよ」

「ーーー俺のせいだよ」

「ほら、行きなさいよ!」

「お、おう」


 立ち上がった雅樹はリビングに進み土下座をして「申し訳ございませんでした!」とペルシャ絨毯に頭を減り込ませた。


「まぁまぁ、雅樹くん、顔を挙げてほら、座りなさい」


 穏やかな声に安堵して見回すと、蓮二、美咲、木蓮、伊月がソファに座っていた。気が付くと睡蓮も雅樹の隣で正座し深々と頭を下げていた。


「お父さん、お母さん、この度はご心配ご迷惑をお掛け致しました」

「なにを言っているんだ」

「そうよ、私たちが結婚を急かせたのが悪かったのよ」


 蓮二と美咲は頷き、2人にソファに座るように手招きをした。


 雅樹はソファに腰掛けたもののその居心地の悪さに尻が落ち着かなかった。気配を察知した睡蓮がテーブルの下でその手を握り優しく微笑んだ。


「大丈夫よ」

「う、うん」


 菓子折と離婚届を手渡すと蓮二と美咲が視線を上下左右に動かして見た。


「睡蓮は相変わらず漫画みたいな字だな」

「お父さん、それは今は良いでしょう!」

「雅樹さんは意外と達筆なのね」

「はぁ」


 叶家の両親もこの離婚に関して苦言を呈する気配はなかった。それどころか美咲は「2人の意向を見極めなかった親の責任だ」と何度も頭を下げた。


「え、いえ。僕が悪かったんです」

「悪かったもなにも雅樹くんの気持ちは固まっていたんじゃないのか」

「ーーーーえ」

「縁談を白紙にしてくれと頭を下げられた時に気付かなかった私が悪かった」

「そうですよ。男の人が指輪を渡すなんてよっぽどの事ですよ」

「そうだったかなぁ」

「そうですよ」


 蓮二は腕を組み、その肩を恥ずかしげに叩く美咲。なにやら甘ったるい雰囲気に木蓮と睡蓮の眉間には皺が寄った。


(ーーーなんなのこの夫婦漫才、座布団2枚渡そうかしら)

(本当に仲良しね、でも今はそんな話じゃないでしょう)


 蓮二は証人の1人が田上伊月である事に気付きなるほどと頷いた。


「あーー、そのだ、伊月くん」

「はい」


 伊月の背筋が伸びた。


「睡蓮は離婚の相談は伊月くんにしていたのかね」

「はい」

「そうか」

「はい、睡蓮さんから何度かお話を伺いました」

「そうか」


 美咲が蓮二の背中を叩きなにやら耳元で囁やき、蓮二は何度か頷いた後にゴホンと咳払いをして湯呑み茶碗を握った。ゴクリと飲み込む。その場に緊張が走った。


「伊月くんが病院の休憩室で睡蓮の手を握っていたというのは本当かね」

「そうなの、呼吸器内科の婦長さんが教えて下さったの、睡蓮が泣いていたって、どうなの睡蓮」

「伊月くんが良かったんじゃないか?」

「睡蓮、先生と結婚したかったの?」

「どうなんだ」

「先生が九州に行かれるから離婚しようと思ったんじゃないの!?」

「どうなんだ」

「そうよね!」


 両親の矢継ぎ早の問いに睡蓮が如何して良いのか分からずにいると伊月が睡蓮の目を見て頷いた。そして蓮二と美咲に向き直り深々と頭を下げた。


「睡蓮さんに九州に来て頂きたいと思っています」

「ーーーー!」

「これからも睡蓮さんの主治医として伴侶として添い遂げたいと思っています」


 睡蓮は口元を両手で隠し熱い涙を流した。


「先生、睡蓮は女性だからすぐに再婚は出来ないの。それでも宜しいんですか?」

「九州での生活が落ち着いた頃にお迎え出来ればと考えています」

「睡蓮、おまえ本当は伊月くんと結婚したかったのか」


 雅樹と結婚したかったのは確かだ。けれどそれは木蓮への対抗心から芽生えた歪んだ恋情でその結婚生活が上手くゆく筈もなかった。


「伊月先生について行きたい、行きたいです」


 睡蓮が紆余曲折して辿り付いた運命の相手は幼馴染の田上伊月だった。「ついて行きたい」25歳の睡蓮はまるで幼い子どもの様に声を上げて泣きじゃくった。その姿に木蓮と雅樹は驚いた。


(あの冷静な睡蓮が)

「ーーーえぐっ、ううっふうっ」


 人目も憚らずに大声で泣き続ける娘の姿に蓮二と美咲は「睡蓮はPTSD ではないか、治療を薦める」と進言した伊月の見たてに間違いはないと確信した。


「治療を受けさせましょう」

「そうだな」


 そして一呼吸置いた蓮二は木蓮の顔を凝視した。

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