睡蓮は出勤する伊月の車に同乗し金沢大学病院を受診した。
ピンポーン 「115番の方6番診察室までお入り下さい」
睡蓮の足は震えていた。伊月の書いた紹介状は女医の手に渡った。
「えーー、叶 睡蓮 さん」
「はい」
「呼吸器内科の田上医師からの紹介状を頂きました、産科婦人科の
生まれて初めて座る産科婦人科の椅子には程よい硬さのドーナツ型クッションが置かれていた。
「よろしくお願い致します」
「はい、よろしくお願い致します」
ベリーショートヘアの溌剌とした雰囲気は木蓮を連想させた。
「今回はどうされましたか」
「難病性気管支喘息患者の妊娠出産についてです」
「叶さんも、あぁ、そうですね」
「はい」
元町はパソコンモニターの前でマウスをクリックした。程なくして睡蓮の通院履歴と病状、処方箋の一覧が表示された。
「通院歴はーーー長いですね」
「大丈夫でしょうか」
「発作も頻繁に起きていますね」
「はい」
規則的にリズムを刻む機械音、白い壁、行き交う看護師、医師の白衣。睡蓮にとって見慣れたはずの光景が全く違って見えた。
「そうですか」
「内診致します。専用の下着を履いてお掛け下さい」
「はい」
壁一枚隔てた隣の診察室からは胎児が順調に育っていると診断され安堵する妊婦の声が聞こえて来た。背後に感じていた待合室の音が消えた。
何処までも青い空、白い雲、睡蓮は大きく息を吸い込み和田家母屋のインターフォンを鳴らした。睡蓮の目の前には職務を切り上げた雅次がソファーに浅く腰掛け、震える指でカップソーサーをテーブルに置く百合の姿があった。
「ブライダルチェックを行わなかった私の不注意でした」
「そんな、ちゃんと調べたの」
睡蓮は深々と頭を下げたまま微動だにしなかった。
「うちの跡継ぎはどうなるんだ」
「申し訳ございません」
「この事は雅樹は知っているの!?」
百合の語気が強くなり、雅次がそれを制した。
「雅樹さんとは今夜話し合います」
「で、でも睡蓮さん、赤ちゃんが出来ているかもしれないでしょう?」
睡蓮は一呼吸置くと義父母を凝視した。
「雅樹さんと私はセックスレスです。一度も関係を持った事はありません」
「そんな、そんな馬鹿な」
「本当です」
百合は狼狽え、雅次は顔色を変えた。
「それで睡蓮さんは如何したいの」
「それは雅樹さんと話し合います」
「叶家との繋がりは如何なるんだ」
「叶家には私の妹が居ます」
「睡蓮さんが駄目で妹さんが雅樹のお嫁さんになるなんて、そんな馬鹿な話がありますか!」
「その点は雅樹さんからお話があると思います」
睡蓮は深々と頭を下げ席を立った。
「す、睡蓮さん!」
「申し訳ございませんでした」
白い日傘がアスファルトの上で開いた。睡蓮の身体は妊娠出産に適していない事が医師から言い渡された。
百合から連絡を受けた雅樹は業務の引き継ぎを行い慌てて帰宅した。ベランダの観葉植物の青さ、風に揺れる白いレースカーテン、窓辺のソファで
「ただいま」
「あら、雅樹さん早かったのね」
「母さんから連絡があった、病院に行ったのか」
「行ったわ」
睡蓮は亜麻色の髪を掻き上げながらキッチンに向かうとグラスに氷をひとつ、ふたつと落とし冷えた麦茶を注ぎ入れた。
「はい、暑かったでしょう」
「あぁ、ありがとう」
グラスの氷が溶け乾いた音がした。雅樹がネクタイを緩めソファーに腰掛けようとすると睡蓮はダイニングキッチンのテーブルに座って欲しいと手招きをした。
「如何したの」
「これに名前を書いて」
「これって」
雅樹の前に差し出された紙は離婚届だった。
「如何いう事」
「雅樹さんが一番良く分かっている筈よ」
雅樹の目は上下左右に忙しなく動いた。
「子どもを産む事が出来ないからか」
「出来ない訳じゃないわ、難しいだけよ」
「それなら如何して離婚なんて!」
睡蓮が記入すべき欄は全て書き込まれ印鑑が捺されていた。
「俺が木蓮と寝たからか」
「やっぱり会っていたのね」
「ーーー」
「それもあるわ」
「それ以外になにがあるんだ」
「伊月先生に私の初めてをあげたの」
1人目の証人に田上伊月の名前が有った。
「初めて?」
「初めて抱いてもらったの」
「ーーーいつ!」
「昨日の夜、伊月先生の家に泊まったわ」
睡蓮の右手はボールペンを握り左手は印鑑ケース、テーブルには朱肉が置かれていた。その左手の薬指からはプラチナの結婚指輪が消えていた。
「ーーー不倫じゃないか」
「雅樹さんも同じよ」
「俺はそんな事はしていない!」
睡蓮の握り拳は怒りで震え、麦茶のグラスに細波を立てた。
「雅樹さんの心の中にはいつも木蓮が居る、これは不倫じゃないの!」
「睡蓮の事も好きになろうと思っていた!」
「ーーーー」
「本当だ」
「好きになろうと思う、それは愛じゃないわ」
「見合い結婚だからそれが普通だろう!」
「心の中に木蓮が居るのに!木蓮と同じ顔の私を愛せるの!?」
雅樹はなにも言い返せなかった。
「こんな結婚生活、時間の無駄よ」
「無駄だなんて」
「遅かれ早かれ駄目になっていたわ!」
「ーーー」
「雅樹さんだってそう思っているんでしょう!」
「ーーー」
雅樹の指先がゆっくりとボールペンを握った。
「財産分与やこれからの事は雅樹さんのご両親と一緒に考えましょう」
「分かった」
喉仏が上下した。
「私、雅樹さんに慰謝料を払わなきゃいけないのかしら?」
手が震えた。
「それは必要ない」
機械的な返答。
「これはお返しするわ」
離婚届の上に真新しい結婚指輪が置かれ、雅樹は睡蓮の顔を見る事が出来なかった。
翌日、雅樹は有給休暇を取り和田の母屋で両親を交え離婚について話し合う事となった。その後は叶家に事の顛末を説明する為に詫びに行かねばなければならない。
(俺が悪い)
企業提携を確固たるものにする為の結婚には最初から無理があった。然し乍ら選択肢は幾つもあった。
(あの時)
一度両家の縁談を白紙に戻して欲しいと叶家に頭を下げた際、実は木蓮に
(あの時)
睡蓮が自宅に手料理を持参し始めた頃、木蓮を
(あの時)
木蓮と瓜二つの睡蓮のいじらしい姿に情が湧いてしまったのも事実だ。
(あの時)
企業間で金銭的援助があったとしても睡蓮ではなく木蓮を選ぶ事も出来た。
(これは問題を先送りにしていた俺へのしっぺ返しだ)
結果、夫婦生活は2ヶ月程度で破綻し睡蓮を傷付けただけではなく両家に
翌日、睡蓮は和田家で離婚に至った経緯や財産分与について話し合う事になった。次に実家の両親に離婚の理由を納得して貰う為、なにひとつ隠す事なく洗いざらい打ち明けなければならない。
(恥ずかしい)
確かに見合いの席で雅樹に心を奪われたが真剣に結婚を望んだ訳では無かった。
(どうかしていたわ)
雅樹が木蓮を選んだと知った時、激しい嫉妬心が芽生えた。
(愚かすぎるわ)
結婚前、いや結納前から雅樹とは性が合わない事を肌で感じていた。それにも関わらず木蓮に負けたくない一心で縁談を進めた。
(馬鹿じゃないの)
雅樹は睡蓮を気遣い優しい言葉で話し掛けてくれた。ところが睡蓮はいつもそこに木蓮の気配を感じ刺々しい言葉遣いや態度を取ってばかりいた。
(勝手よね)
そして木蓮への当て付けの様に結ばれた雅樹との夫婦生活は2ヶ月程度で破綻、しかも離婚届を雅樹に叩き付けたのは睡蓮自身からだった。
(都合良すぎるわ)
ただそこに伊月が現れなければ睡蓮は苦虫を潰した様な面持ちで、雅樹と殺伐とした結婚生活を送っていたに違いなかった。
(軽蔑されるわ)
伊月の背中を追って九州に行きたいと言い出したら両親は嘆き悲しみ、木蓮には蔑まれるに違いなかった。
(最低だわ)
睡蓮は自分の身勝手さがどれ程の人間を傷付け、これからも傷付けてゆくのかと自分自身を責めながら夜明けを迎えた。