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第18話 上弦の月 下弦の月

白い部屋、眩しいLEDの蛍光灯、注射台の上に肘を着けた睡蓮は思わず顔を背けた。その苦々しい面持ちに注射針を腕に刺しながら看護師が笑った。


「睡蓮ちゃんは本当に採血が苦手なのね」

「血を見たく無いんです」

「ほーーら、どんどん採っちゃうわよ」

「やめて下さい」

「ほーーら」

「やめて下さい」


 睡蓮と看護師が遠慮なく遣り取り出来るのは、睡蓮が如何に長期間この呼吸器内科に通院しているかを物語っていた。物心ついた頃にはこの部屋で吸入器を口に当て、レントゲン室の待合の椅子に座り、泣きながら採血を受けた。


「あれ?おじいちゃん先生は?」


 高齢の主治医は大学の教授になり目の前の椅子には幼馴染のが座り聴診器を胸に当てていた。


「睡蓮さん、今日から私が睡蓮ちゃんの主治医ですよ」


 伊月は喘息を患う睡蓮を助けたいが為に金沢大学医学部を目指し医師の資格を取得した。睡蓮が高等学校を卒業して以来の6年間を伊月は睡蓮の主治医、家庭医として寄り添って来た。


「でも睡蓮ちゃん、残念よね」

「ーーーえ、なにが残念なんですか」

「田上先生、九州の大学に転勤になるんですよ」

「ーーー転勤、転勤ですか!?」

「そう、九州大学、栄転ね」


 睡蓮は隣室で診察をしている伊月に向き直り、カーテンを思い切り開けてそれが事実なのかと問いただしたい感情に駆られた。


「あっ!」


 気が付けば椅子から立ち上がり、血管の壁を注射針が突いていた。


「イタっ!」

「あっ!駄目ですよ!動かないで!」

「ごめんなさい」

「痛かった?ごめんね、内出血するかもしれないわ、ごめんね」

「いえ、私が悪いんです」





 そしてこの突然の転勤については叶家でも頭痛の種となっていた。


「まさかこんな早くに転勤になるなんて」

「木蓮、伊月くんからなにか聞いていたのか?」

「ーーー聞いて、ない」


 木蓮も予想外の出来事に戸惑った。


(なんでこのタイミングで?)


 ふと雅樹との一夜が頭を過ぎった。まさか知っていた、いや、あのマンションに木蓮と雅樹が入る現場を伊月が見ていたとは考え難い。木蓮も伊月にそんな素振りを見せた事はない。


(まさか睡蓮が伊月に話したの?)


 西念の家から突然飛び出した睡蓮。その原因が雅樹との逢瀬だとして訪ねた先が伊月の部屋だったら。


(810号室の事を伊月が知ったとしたら)


 木蓮の手のひらに汗が滲んだ。


「ごめん、お待たしました」

「いつ、きーー先生」


 睡蓮と伊月の姿は金沢大学病院の展望台にあった。断崖絶壁の竹林から見下ろす浅野川、向こう岸の丘陵地には睡蓮の実家がある太陽が丘、伊月のマンションが建つ田上新町が見える。


「おもちゃ箱みたいね」

「そうですね」


 2人の手には湯気が立つココアとブラックコーヒー、街を眺める木製のベンチに並んで座った。両手で包む温かさは伊月の背中の温もりを思い起こさせた。伊月は無言で白い紙コップのコーヒーを飲み干している。


「あの」「あのね」


 2人同時に口から言葉が転がり出た。気不味さに無言の時間がすぎて行く。伊月の昼休憩もあと残り僅かだった。唇を動かしたのは伊月だった。


「睡蓮さん」

「なに」

「私、転勤する事になりました」

「看護師さんからお聞きしました九州だそうですね」

「医局から九州大学病院への転勤の打診があって、迷っていました。」

「それが、なんで急に」


 伊月は睡蓮を凝視した。


「睡蓮さんが結婚したからです」

「私が、ですか。そんな事より木蓮はどうするの!」

「木蓮との婚約はお断りする事にしました。両親とも話し合いました」

「ーーーそんな」

「なんとなく流れで見合いした様なものですから」


(なんとなく)


 睡蓮はココアに視線を落とした。自身も親に頼まれてなんとなく見合いの席に着いた。そして雅樹の性格や気質を知る以前に一目惚れをしてその後は木蓮への対抗心に囚われて半ば強引に結婚した。


(なんとなく)


 木蓮が雅樹に選ばれたと知った時は悲しさよりも怒りが先に沸々と煮えたぎり、まるで幼い子どもの様に焦茶のティディベアを木蓮に叩き付けていた。


(なんとなくじゃない)


 それがどうだろう。


(なんとなくなんかじゃない)


 伊月が自分から遠く離れて九州に行ってしまうと聞いた今、睡蓮の胸の内には遠浅の海が凪ぐ、そんな静かな悲しみが広がっていた。鼻の奥がつんと萎み、目頭が熱くなるのが分かった。堪えられない涙が一筋流れた。


(先生がいなくなる)


 然し乍ら伊月はその涙を拭う事もなく、優しい言葉を掛ける事もなかった。そしてただ一言だけを残し席を立った。


「明後日、この前と同じ時間に待っています」


 睡蓮が驚いた面持ちで振り返るとその背中は振り返る事なくエスカレーターを降りて行った。


 あのマンションで木蓮と一夜を共にした事が露呈した今、810号室の鍵を持ち続けてはならない。そう考えた雅樹はマンションの部屋を解約しようと決意した。


(ただそれで解決する訳じゃない)


 全てに幕引きをする意味で解約しようと心に決めた。


(この結婚には最初から無理があったんだ)


 ただの姉妹ならば然程さほど問題は大きくならずに済んだのかもしれない。けれど瓜二つの顔を持つ女性を2人同時に愛する事は到底無理な話だった。


「ただいま」

「お帰りなさい」


 睡蓮は振り向く事なくガスレンジに向かっていた。油が弾ける音、唐辛子と豆板醤、醤油の香りがキッチンから漂って来た。今夜は麻婆豆腐だ。


「睡蓮、話があるんだ」


 雅樹が肩に触れようとした瞬間、バネが跳ね返る様に振り解かれていた。


「な、なに」

「ごめんなさい、ちょっと驚いちゃって」

「そうか」

「ごめんなさい」


 睡蓮は雅樹に触れられる事に違和感を感じる様になっていた。掛け違えたボタンはもう元には戻せない。


「今日の病院どうだった?」

「血液検査で採血をしたの」

「そうか」

「うん」

「今日も田上先生なのか」

「うん、主治医だから」

「そうか」

「うん」


 会話はぎこちなく互いに言葉を選んでいた。


「睡蓮」


 雅樹はフロアカーペットに膝を付くと深々と頭を下げた。その姿に睡蓮は驚きガスレンジの火を消した。


「雅樹さん、なにをしているの」

「申し訳ない」

「やめて」

「睡蓮、申し訳ない」

「なに、なにを謝っているの?なにに謝っているの、やめて」

「申し訳ない」

「やめてよ」

「本当に申し訳なかった」


 睡蓮はその肩を掴んで揺さぶったが雅樹は床から頭を上げる事は無かった。


「申し訳なかった」

「やめて、やめてよ」


 睡蓮の頬には涙が流れていた。その夜の麻婆豆腐は器に盛られる事は無く、雅樹は翌日のスーツやワイシャツ、着替えを持つと「今夜は隣のホテルに泊まるから」通り一本を隔てたシティホテルの名前を告げると部屋を後にした。


 数分後、睡蓮からLINEメッセージが届いた。


<明後日から一泊旅行に行きます>


 雅樹は首を項垂うなだれ溜息を吐いた。


(全部終わらせよう)


 雅樹は携帯電話をタップすると木蓮にショートメールを送信した。


<明後日の夜部屋に来てくれ>




 暗闇でタクシーのハザードランプが点滅する。


「ありがとう」


 12階建のマンションを仰ぎ見る木蓮のショルダーバッグには810号室の鍵が入っていた。正面玄関エントランスで「8、1、0」のボタンを押すと雅樹の声がしてガラス扉が左右に開いた。


(後悔はない)


 エレベーターホールに立つ木蓮の脚は震えていた。810号室、見上げたネームプレートにはWADAの4文字、最初に来た時には気付かなかったが木製のプレートにはヨットの模様が彫られていた。


(ーーーセーリングが趣味だとか言っていたわね)


 重い音が解錠を知らせ木蓮の心臓が跳ね上がった。


「よう、久しぶり」

「よう、久しぶり」


 雅樹の首元に残る柑橘系の爽やかな香りが木蓮を包み込み胸が締め付けられた。あの情熱的な夜を思い出す悲しさ。


「入らないのか」

「これ、返しに来ただけだから」

「そうか」


 木蓮はショルダーバッグから810号室の鍵を取り出すと差し出された雅樹の手のひらに置いた。心許ない金属音が耳に残った。


「じゃあ」

「じゃあ」


 木蓮は雅樹を振り返る事もなく背を向けた。愛おしい女性の後ろ姿を見送った雅樹は音もなく玄関扉を閉めた。力が抜けその場に座り込むとハタハタと涙が溢れて落ちた。カツカツカツと遠ざかるパンプスの足音。


(木蓮)


 耳を澄ませばエレベーターの扉が閉まるベルまで聞こえるような絶望感に襲われた。







 街灯の灯りの下でタクシーのハザードランプが点滅する。


「ありがとうございました」


 山茶花の垣根を折れると5階建のマンションが小高い丘の上に建っていた。睡蓮の手には一泊分の旅行鞄、505号室のカーテンは開き逆光の中で伊月が睡蓮を待っていた。「5、0、5」のボタンを押すとガラスの扉が左右に開いた。


(後悔はしない)


 エレベーターホールに立つ睡蓮はその箱の中に足を踏み入れた。


「こんばんは」

「こんばんは」

「どうぞ」

「お邪魔します、あっ!」


 睡蓮はシダーウッドの香りに抱き締められていた。


「睡蓮さん、此処に来た意味は分かっていますか」

「分かっています」

「分かっていて来たんですか」

「分かっていて来ました」


 鼻先に感じる穏やかなシダーウッドの香りは睡蓮の心の棘を1本、また1本と抜き素裸にしてゆく。静かな波の中で漂う海月くらげはこんな気分なのだろうかと睡蓮は伊月の背中に腕を回した。


「不倫ですよ」

「良いんです、先生と居る事が出来ればそれでも良いです」

「九州に行ってしまいますよ」

「良いんです、先生」


 伊月は銀縁眼鏡を外すとナイトテーブルに置き、睡蓮にそっと口付けた。


「私は焦茶のくまですよ」

「気が付いたんです、私の側に居たのは焦茶のくまでした。私の側に居てくれたのは先生だったんです」


 睡蓮は口付けを受け入れながら伊月の両頬を包み優しく見つめた。


「先生が私のくまだったんです」

「それは光栄ですね」


 伊月は亜麻色の絹糸に顔を埋めた。


「私が心に決めている女性は睡蓮さんです」

「両思いですね」

「でも、このままでは私は生涯独身ですね」


 伊月の手は睡蓮の白い脚を撫で上げた。捲れ上がるワンピースの感触にその肢体は小刻みに震えた。


「やめておきますか」

「いや、やめないで下さい」

「途中で嫌だと言われても私は止まらないですよ」

「いやと言っても最後までして下さい」

「止まらないですよ」


 ワンピースのボタンを外しながら伊月はTシャツを床に脱ぎ捨てた。顕になった胸板は思いの外逞しくその意外性に驚いた睡蓮は細い指先でその肌に触れた。


「これが伊月先生」

「これが睡蓮さん」


 伊月は睡蓮の乳首に舌を這わせた。ハネムーンの夜に感じる事のなかった熱さが身体中を駆け巡った。もしかしたら雅樹とは身体の相性好ましく無かったのかもしれない。身体中を愛おしそうに撫でる伊月の指は快感を連れ睡蓮を包み込んだ。


「あ」


 暖かなシェードランプの灯りを見た睡蓮は伊月に電気を消して欲しいと呟いた。遮光カーテンから漏れる街灯の光の筋が2人を照らす。それでも恥ずかしげな睡蓮は両手で顔を隠した。


 伊月の指先が睡蓮の内股を伝い上がった。


「大丈夫ですか」

「はい」


 そっと触れるとその場所は湿り気を帯び指で触れると糸を引いた。


「指は入れない方が良いですか」

「分かりません」

「指の方が硬くて異物感があるかもしれません、このまま出来るところまで続けましょう」

「分かりました」

「ゴムを着けますから待っていて下さい」


 それはまるで病院で受ける問診の様でふと笑みが溢れてしまった。けれど睡蓮の蕾は強張ったままだ。


「やはりやめましょう」

「嫌です」

「緊張していますよ」

「嫌です」

「睡蓮さんは意外と頑固ですよね」

「お願い、やめないで下さい」


 伊月は壊れ物を扱うようにひだの中にそれを押し付けた。奥に睡蓮の肉壁を感じそれだけで目眩がした。


「痛いですか」

「分かりません、まだ入っていないの」

「まだ入っていません、少し入れますよ、痛かったら言って下さい」


 医師の様に淡々と接しているが伊月は今この瞬間にでも膜を破り中に入りたい衝動に駆られていた。次の瞬間、先端を受け入れた睡蓮は「あっ」と痛みを訴え伊月の腕に爪痕を付けた。


「せ、先生、入ったの」

「少しだけです」

「まだ痛いの」

「女性の痛みが如何か説明は出来ませんが個人で違う様です」


 やはり問診を受けている様で緊張は和らいだ。


「血液検査の注射より痛い?」

「痛いと思います」

「そんなに痛いの」


 問診のような遣り取りをしていた所為だろう。伊月は陰部の張りが少なくなっている様に感じた。


(今なら痛く無いかも)

「睡蓮さん、我慢して下さい」

「えっ」

「ごめんなさい!」

「えっ!あっ!」


 睡蓮は鈍い痛みに腰を反らしたが伊月の両手が尻を引き寄せ陰部が肉壁へと到達した。膣内の温もりを感じた。


「痛かったですか」

「痛かったです、でも、でもこれで終わりじゃ無いですよね」

「終わりにしておきましょう」


 伊月は陰部を抜き処理すると睡蓮の肢体を起こして股座を見せた。淡いグレーのシーツには赤茶の染みが付いていた。


「これ」

「はい」


 睡蓮は伊月の手を握りながらそれを凝視し涙を流した。


「これがそうなのね」

「はい」


 それは痛みを伴う行為だったが愛する人に抱かれたという幸せが睡蓮を包み込んだ。


「先生、ありがとう」

「はい」


 雅樹と結婚して約2ヶ月、虚しく寒々しい日々だった。


「先生、ありがとう」

「はい」


 ようやく人の温もり、愛すべき人に辿り着いた睡蓮は女性としての喜びを知った。伊月の胸に抱かれて迎えた朝は眩しい陽射が降り注ぎ、2人は優しい口付けを交わした。


「睡蓮さん、送って行きますよ。準備は良いですか」

「はい」

「荷物、持ちますよ。身体は大丈夫ですか」

「ありがとうございます」


 光が乱反射する車のサイドミラーに映った睡蓮の目には力強いなにかが宿っていた。

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