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第17話 満月

 見上げると満月が馬鹿みたいに大きく見えた。タクシーの後部座席の扉が閉まりエンジン音が遠ざかる。一時停止の交通標識で赤いブレーキランプが点灯し、悲壮感漂う睡蓮の横顔を映し出した。月明かりの中、静かな住宅街にパンプスの音が鳴り響いた。


(ーーー先生の所に行ってどうするの)


 山茶花さざんかの垣根を曲がるとやや小高い場所に如何にも単身者向けの5階建のマンションが見えて来た。駐車場に停まっているBMWは伊月の車だ。ボンネットを触るとまだ暖かかった。


(でも)


 バルコニー側に回り込むと遮光カーテンの隙間から明かりが漏れている。


(でも、もしかしたら木蓮が居るかもしれない)


 脇に汗が滲み、動悸が激しくなった。子どもの頃からの癖で緊張すると二の腕を激しく掻いてしまう。睡蓮の腕は赤く色付いた。


(で、電話)


 睡蓮は財布の中から伊月の名刺を取り出し携帯電話を握った。


ルルルル

ルルルル

ルルルル

ルルルル

ルルルル


(出ない)


 もしかしたら木蓮とベッドの中で睦み合って居るのかもしれない、婚約者なのだから有り得る事だ。何処に行っても。睡蓮は大きな溜息を吐いて10コール目で発信ボタンを切ろうと人差し指を伸ばした。


「ーーーどなたでしょうか?」


 見慣れない発信者番号に訝しげな声が聞こえた。


「せ、先生」

「ーーー!もしもし!」

「睡蓮です」

「睡蓮さん!」


 急に伊月の声色が変わり、慌てている事は明らかだった。


「睡蓮さん、どうしたんですか、発作ですか!」

「ーーーーー」

「睡蓮さん、大丈夫ですか!」


 主治医と患者の関係だと分かっていてもその声に縋り付きたかった。


「ーーー先生」

「はい!ネフライザーは!」

「先生、そこに木蓮は居る?」

「そこ、そことは何処の事ですか」

「カーテン」


 その言葉に弾かれる様に伊月は寝室のカーテンを開けた。暗がりの中に携帯電話の明かりが睡蓮の姿を浮かび上がらせていた。


「なにをしているんですか!こんな寒い夜に!」

「木蓮は居るの?」

「居ません、今、オートロックを開けますから上がって来て下さい!505号室です。エレベーターを降りて左側です」

「行って良いの?」

「良いも悪いも、発作が起きますよ!早く!」


 玄関エントランスに向かうと自動扉は既に開いていた。


(ーーー開いている)


 雅樹が秘密裏に借りていた810号室の鉄の扉は睡蓮を拒絶していた。今の睡蓮にとってこのガラスの自動扉は自身を受け入れてくれている、そんな気がした。エレベーターホールに立つとそのボタンを押す前にそれは4階、3階と下りて来た。扉が左右に開くとそこには濡れた髪の伊月が立っていた。


(ーーー先生)

「睡蓮さん、どうしたんですか」


 睡蓮はその胸に飛び込んでいた。


 伊月は一瞬たじろいだがその腕は睡蓮を抱き締めていた。


「睡蓮さん、どうしたんですか」


 柔らかな絹糸の亜麻色の髪に顔を埋める。睡蓮は伊月の跳ねる鼓動に耳を澄ませた。静かに閉まるエレベーターの扉、伊月は迷う事なく5階のボタンを押した。


「雅樹さんと喧嘩でもしたんですか」

「違うの」

「じゃあ、どうして」

「家に居られなくなったの」


ぽーーん


 扉が開き2人は自然と身体を離し、伊月は睡蓮の二歩先を歩き睡蓮はその背中を目で追った。只事ではないと慌てていたのだろう革靴が右に左にと転がり鍵も掛けずに部屋を飛び出した形跡があった。伊月は革靴を揃えると睡蓮を招き入れた。


「お邪魔します」

「どうぞ」


 淡いグリーンを基調とした2LDKの部屋にはシダーウッドの香りとそれに絡み付く男性独特の匂いがした。伊月もいつもの白衣ではなく黒いTシャツに紺色のハーフパンツを履いて髪の毛はシャワーを浴びた後の湿り気が有った。


「散らかっているけれど、座って」

「散らかってるなんて、とても綺麗です」

「そう?」

「はい」


 銀縁眼鏡を外した伊月はの顔をしていた。その時睡蓮は如何に自分が突拍子も無い事をしているのかと我に帰った。ソファの脚が軋み、その音に居心地の悪さを感じた。なにか話さなければならないと思うが言葉が出て来ない。


「ホットミルクで良いかな」

「あ、ありがとうございます」


 結婚前、病院の談話室で伊月に悩み事を相談していた時睡蓮はホットミルクを注文していた。伊月はそんな些細な事を憶えてくれていたのだ。雅樹はどうだろう、雅樹は睡蓮がなにを好みなにを苦手としているか知っているだろうか。目頭が熱くなった。


「はい、熱いから気を付けて」

「ありがとうございます」


 伊月はカーペットの床に胡座を掻いて座った。ふと見遣ると睡蓮の腕には掻きむしった跡が有った。幼馴染の伊月はそれが極度の緊張から来る動作である事をよく知っていた。


「睡蓮さん、なにが有ったんですか」


 ホットミルクの湯気の中、睡蓮は声を震わせた。


「あの」

「はい」

「何処から話して良いのか分からない」

「話せる所からで良いですよ」

「あの」

「はい、落ち着いて」


 いつの間にか睡蓮は両腕に力を入れて拳を強く握っていた。睡蓮は言葉を詰まらせながらゆっくりと口を開いた。


「ーーー私、した事がないんです」

「した事がない、なにをですか?」

「ないんです」

「ない」

「はい、私、新婚旅行で出来なかったんです」


 伊月は一瞬驚いた顔をしたが、なるべく平静を装い医師の顔で接する様に心掛けた。


「そうなんですか」

「ーーーはい」

「それは雅樹さんに問題が有ったのでしょうか」

「いえ、そうではありません」

「ーーーそうですか」

「はい」


 睡蓮は伊月を凝視した。


「先生、話しても良いですか」

「はい、私でも宜しければ」

「本当に良いんですか」

「どう言う事でしょうか」

「も、木蓮の事です」

「木蓮?」


 睡蓮の思い詰めた顔、伊月に大方の予想は付いた。


「雅樹さんと木蓮、付き合っていたんです」

「ーーーまさか」

「木蓮は雅樹さんの部屋の鍵を持っています」

「雅樹さんの部屋とはなんの事ですか」

「雅樹さんがです」


(ーーーああ、やっぱり)


「雅樹さんは木蓮と、木蓮と、もう耐えられない」


 堪えきれなくなった睡蓮の目から大粒の涙が溢れワンピースの太腿を濡らした。伊月としてもまさか結納まで交わした木蓮が雅樹と通じているとは思いも依らなかった。


(木蓮とは明日、明後日にでも本人と話せば良い)


 伊月は取り敢えず、人妻睡蓮を夜の部屋に招き入れているこの歪な状況をなんとかしなければならないと考えた。


「それで西念さいねんのご自宅を飛び出して来たのですか」

「ーーーはい」

「叶家に行こうとは思わなかったのですか」

「叶には木蓮が居るから」

「それで私の所へ」

「はい、ごめんなさい」


 伊月は温くなったコーヒーに口を付けた。時計の秒針の音だけがする静かな部屋、睡蓮は黙り込んだままカップを両手で持った。


「あ、ミルク冷めちゃいましたね。取り替えましょうか」

「先生、憶えていて下さったんですね」

「なんの事でしょうか」


 目の周りを真っ赤にした睡蓮は力無く微笑んだ。


「まえ、病院で私がホットミルクを注文した事を憶えていてくれたんですね」

「たまたまですよ」

「嬉しかった」

「嬉しかった、ですか」

「はい、私を見てくれる人に出会えた様な気がして嬉しかったです」


「叶家の皆さんだって睡蓮さんの事を大切にされているじゃないですか」

「ーーーそれとこれとは違うわ」

「そうですか」

「私も血の繋がりが無い誰かと結び付きたい」

「雅樹さんが居るじゃないですか」

「紙の上だけの繋がりだわ」


 睡蓮は左の薬指を弄りながら半ば投げやりな口調で言い切った。


「雅樹さんと話し合いはされたんですか」

「ーーーしていません」

「まだ結婚式を挙げられて1ヶ月です、他人同士分かり合えない部分も多いと思います。一度真正面から向き合われては如何ですか?」

「ーーー先生」

「送って行きます。雅樹さんもご心配されているでしょう」

「心配なんて」

「準備しますから待っていて下さい」


 伊月はコーヒーカップをシンクの中に置くと隣の部屋に向かった。リビングの明かりを頼りに暗がりでジーンズを履き、シャツのボタンを指で摘んだ。


「ーーーー!」


 睡蓮は伊月の背中から手を回し軽い羽根の様に抱き付いた。


「睡蓮さん、なにをしているんですか」

「先生、昔みたいに伊月くんって呼んで良い?」

「ーーーえ」

「呼びたいの」


 伊月の身体は硬直して微動だにしなかった。背中に感じる睡蓮の温もりと激しい鼓動、匂い立つ女性の香り。理性と欲望がせめぎ合いゆらゆらと揺れた。


「睡蓮さん、私は焦茶のくまですよ」


 睡蓮の絡めた指先がピクリと動いた。


「私はベージュのくまではありませんよ、あなたが木蓮に投げつけて捨てた焦茶のくまです」

「それは」

「ベージュのくまが思っていた物じゃなかった」

「ーーー」

「だから今度は焦茶のくまにするんですか」


 伊月は睡蓮の指先を一本、また一本と静かに外してシャツのボタンを留め始めた。その後ろ姿は少し哀しげに見えた。


「はい、これを羽織って下さい」


 睡蓮に向き直った伊月は普段と変わらぬ笑顔でデニムのオーバーシャツを手渡した。我儘な自身の行動を恥じた睡蓮はその面立ちから視線を外した。


 その頃、雅樹は睡蓮を探しマンションの周囲の公園や飲食店を覗き金沢駅構内を汗だくになって走り回っていた。叶家に電話で連絡を入れた所「こちらには遊びに来ていない」と蓮二睡蓮の父は不思議そうな声色をした。


「睡蓮がどうかしたのかい」

「いえ、買い物に行ってからまだ帰らないので」


 すると蓮二は高らかに笑った。


「雅樹くんは心配性だな、まだ21:00前じゃないか。木蓮は朝帰りだぞ」

「ーーーーえ」

「困った暴れ馬だ」


 睡蓮の行方を心配しつつ蓮二の発した言葉に動揺する中途半端な自分が居た。


(そうだよな、婚約者がいるんだから朝帰りもするか)

「分かりました!ありがとうございます!」

「睡蓮がこっちに顔を出したら注意しておくよ」

「ーーーーえ」

「新婚の嫁がふらふらと見苦しい、申し訳ないが雅樹くんも叱って躾けてやってくれ」

「そんな、そんな事はありませんから」


 睡蓮は完璧な妻だ。罵られるのは雅樹自身だった。


「それでは失礼します」

「あぁ、睡蓮が帰ったら一度知らせてくれないか」

「分かりました」


(ーーー家に戻っているかもしれないな)


 雅樹は踵を返しマンションへと向かって走った。ところが肩で息をする雅樹が見たものは、街灯を避けた暗がりに駐車した車の赤いブレーキランプだった。


(ん?)


 黒いBMW、見覚えのあるナンバープレートの数字。それが木蓮の婚約者の車である事は一目瞭然だった。


(ーーーあれは)


 その助手席から降りて来た女性は睡蓮だった。明るい笑顔で運転席の窓に話し掛けている。


(どういう事だ)


 木蓮の婚約者が睡蓮と話し込んでいる。


(ーーーなぜ)


 その男性の名前は田上伊月、睡蓮の主治医だとは聞いていたがそれにしても2人の距離は近かった。


「もしもし叶さんのお宅でしょうか、雅樹です」

「おぉ、睡蓮は帰って来たか」

「ーーーーはい、ご心配をお掛けしました」


 ヴヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴ


 雅樹の胸ポケットの中で携帯電話のバイブレーション機能が着信を知らせた。それは見覚えの無い番号だったが私用電話番号を知る人物は限られている。


(ーーーまさか)


 雅樹は睡蓮と伊月に背を向けるとポプラ並木を反対方向に向けて歩き出した。赤いブレーキランプから遠ざかる青白い携帯電話の明かりはこれからの4人の行く末を予感させた。


「もしもし」


 息遣いが聞こえる。


「木蓮、木蓮なんだろう」

「あんたなにをしたの」

「なにって」

「睡蓮が居なくなったのは、あんたとなにかあったんじゃないの?」

「ーーーー」

「あんたたち、上手くいってたんじゃないの!」


 木蓮の背後には車のエンジン音、走り出す人の騒めき、歩行者信号の機械のさえずりが聞こえた。


「おまえ、外に居るのか」

「当たり前でしょ!こんな話、お父さんやお母さんの前で出来無いわよ!」


 雅樹は大きく息を吸った。


「睡蓮がおまえと俺の事に気付いた」

「気付いた?」

「あの部屋の鍵の事を知っていた」

「嘘ーーーいつから」

「新婚旅行に行く前、俺がおまえに荷物を出した頃」

「ーーー結婚式の前じゃない」

「わかんね」


 そうだ、810号室の鍵を仕舞い込んだのはおもちゃのオルゴールだった。睡蓮とお揃いのおもちゃのオルゴールは鍵穴も同じだったのかもしれない。木蓮は後頭部を殴られた様な衝撃を受けた。


(ーーーだから家に来なかったのね)


 思考回路は乱れ、目の前が暗くなった。どうして気付かれないと思ったのだろう、どうしてあの時810号室の鍵を捨てなかったのだろう。それは雅樹も同じ思いで睡蓮の事を軽んじていた事を悔いた。


「どうしたら良いの」

「謝るしかないだろう」

「なんて言うの!あなたの婚約者と寝ましたって言えば良いの!?」

「それしかないだろう!」

「それでその後はどうなるの!」

「わかんねぇよ!」


 雅樹は力無くその場に座り込んだ。睡蓮は810号室の鍵や深紅の指輪の事を知っていたにも関わらず毎日笑顔で尽くしていてくれた。


「ーーーわかんねぇよ」


 木蓮とは激しい恋情で身体の繋がりはある、睡蓮とは身体の繋がりこそないが惜しみない愛情を注いでくれる。


「わかんねぇよ」


 木蓮とは終わった事だ、どんなに恋焦がれてもあの夜は戻らない。


「ーーーー木蓮」

「なに」

「あの部屋の鍵、返してくれないかな」

「ーー!」

「また連絡する」


 雅樹とは終わった事だ、どんなに恋焦がれても姉の夫で自分には伊月という婚約者が居る。けれどいざ810号室の鍵を手放すとなると躊躇いが残った。

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