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第15話 新婚旅行

 成田国際空港のロビーには和田家、叶家、そして木蓮の姿があった。


「いってらっしゃい」

「気を付けてね」


 伊月は病院勤務の為、睡蓮と雅樹の新婚旅行の出立を見送る事は出来なかった。然し乍らそれで良かったのかもしれない。何故なら笑顔で送り出す筈の木蓮の表情は固く沈んだものだった。


(伊月、あんたは来なくて正解よ)


 教会で参列者席から見上げた睡蓮のウェディングドレス姿、雅樹のタキシード姿に伊月と木蓮は言葉を失った。特に伊月は中学高等学校以来10年以上の間、睡蓮に思いを寄せていた。


(ーーー見ていられないわ)


 それは木蓮が雅樹と出会い恋焦がれた半年そこそこの恋情とは比べものにならない。


「いって来ます!」


 満面の笑顔の睡蓮はチェックインカウンターで手続きを済ませる雅樹に寄り添い、手荷物検査場、搭乗口に向かう間、様にその肘に手を添えた。飛行場を見渡すデッキ、搭乗口から飛行機へ向かう通路内も二人は腕を組んで歩いていた。


(ーー雅樹、あんたは睡蓮を私と同じ様に抱くのね)





 ジャンボジェット機の車輪は胴体に格納され青空へと飛び立った。


「雅樹さん、見て、見て!街がおもちゃ箱みたい!」

「あぁ、本当だ」

「飛行機って雲の上を飛ぶのね」

「睡蓮さんは」

「国外旅行は初めてなんですよね」

「はい!」


 睡蓮は昨夜のオルゴールの箱の事は見なかった事にしようと心に決めた。あの指輪、いやそれ以上に気に掛かる810号室の鍵、知ってはならない知らない方が良いとそう思った。


(雅樹さんを信じるしかない)

「ーーーん、どうしました?」

「どうって」

「顔色が悪いですよ、酔い止めの薬を貰いましょうか?」

「いえ、大丈夫です」


 突き抜ける青空、ダニエル・K・イノウエ国際空港に着陸したジャンボジェット機の機内通路、到着ロビーへと向かう連絡通路で雅樹は睡蓮の手を取り彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。


(ーーーそうよこうやってゆっくり年を重ねれば)


 年を重ねれば雅樹は自分を木蓮のように激しく愛してくれる様になるのだろうか、答えは分かっていた。当たり障りの無い会話、穏やかな笑顔、そこに本当の和田雅樹の姿は皆無だ。


「睡蓮さん、車が迎えに来ていますよ」

「はい」

(結局、私は呼びなのね)


 空港ロビーでは南国の匂いが二人を歓迎したが睡蓮と雅樹を取り囲む雰囲気はそれに見合う物では無かった。車寄せには黒いロールス・ロイスの運転手が待機していた。宿泊先はラナイ島のフォーシーズンズ リゾート ラナイ。


「ーーー海!」

「エントランスから海が見えるのか、綺麗な海ですね」

「泳いでみたいわ」

「泳げるんですか?」

「泳いだ事はないの」


 エントランスの向こうには椰子が真っ直ぐに青空へと背伸びし、水平線が白く烟る浅青の海が煌めいていた。


 どこまでも続く青。


(ーーーあいつなら飛び込んで行きそうだな)


 睡蓮がウェルカムドリンクで冷を取っている間に雅樹はチェックインの手続きを済ませた。旅行会社が手配したチェックインシートに並んだローマ文字。


MASAKI WADA

SUIREN WADA


 ボールペンを走らせサインをする瞬間、違和感と切なさを覚えた。


(和田、和田木蓮)





 あれは1年前。

出張先のイタリアで探し出したこぢんまりとしたガラス工房での出来事だ。


<いらっしゃい>


 木戸を開けた瞬間、雅樹の目に映ったのは木枠の陳列棚に並んだ色彩豊かなガラス棒だった。店の奥から白髪で丸眼鏡を掛けた高齢のガラス職人が顔を出した。


<お客さん、贈り物かい>

<女性なんですが>

<そのお嬢さんと会った時、瞬間的に感じた色は>


「ーーー赤」


<なんだって?アジアの言葉は分からん>

<赤、あの赤であれで指輪を作って下さい>

<あの色か!情熱的なお嬢さんだな!>


 溌剌はつらつとした夏の花を思わせる無邪気な笑顔、飾らない言葉、にも関わらず家族や睡蓮に対する思い遣りは白く包み込む木蓮の花を連想させ雅樹を虜にした。


<白い花の模様は付けられますか>

<雛菊か>

<いえ、これです>


 雅樹は携帯電話で画像検索し木蓮の花を見せた。


<あぁ、マグノリアか。じゃあ明後日取りに来てくれ>

<お願いします>

<代金は先払いだぞ>


 その深紅の指輪に木蓮の名前を彫って欲しいと依頼した時、日本で睡蓮との縁談話が進んでいるとは思ってもみなかった。





「お待たせ」

「ありがとうございます」

「ポーターが荷物を運んでくれるから行こう」

「はい」


 差し出す手のひらに睡蓮の手が握られる。傍目にはラナイ島に訪れた新婚夫婦だろう。そんな2人の内情は微妙だった。


「落ち着いた造りですね」

「平屋建てだから階上の物音に悩まされる事もないよ」


 24室の別邸へと続く回廊はベージュを基調とした土壁で仕上げられていた。窪みにはキャンドルが置かれ夜にはライトが灯るのだと言う。


「素敵」

「気に入った?」

「はい」

「なるべく緑が多いホテルを選んだんだ」

「どうして?」

「少しでも湿気があれば喘息にも良いかと思って」


 睡蓮はその心遣いに感動した。


(嬉しい)


 こうして寄り添い暮らしてゆけばやがて子どもにも恵まれるだろう。、気にする必要など無い。


「ありがとう」


 ポーターが鍵を開けて5泊6日分の荷物を運び込む。チップを渡し扉が閉まると静けさが広がった。遠くに波の音が聞こえる。


「ベランダから海が見えるのね」

「少し狭いかな」

「そんな事、ない、です」


 開放的なベランダから海が一望出来るオーシャンフロントのスタジオスイート。白を基調としたインテリアとファブリック、キングサイズのベッドがその大半を占めていた。


「ーーーベッド」

「そうだね」


 あれ以来、睡蓮と雅樹は口付けを交わしていない。睡蓮は雅樹が自身に触れようとしない原因がとそう考えた。そして雅樹は睡蓮に810号室の木蓮を重ねた。


 バナナの葉に包まれた南国料理、香辛料の効いた海産物、2人はシャンパングラスを傾けココナッツミルクのデザートに舌鼓を打った。


「ホテルのディナーも良いけれどやっぱり睡蓮さんの料理が美味しいよ」

「ーーーーもう!」

「なに、牛みたいな声出して」

「さん、さん付け呼びは結婚したら止めるって言ってたじゃない」

「ごめん」

「呼んでみて?」


 雅樹は顔を赤らめ、睡蓮はカトラリーを手に首を傾げた。


「呼んでみて」

「す、すいれ」

「呼んでみて」

「睡蓮」

「やだ、恥ずかしいーーーー!」

「睡蓮さんが呼んでみてって言ったから」

「ふふ、雅樹」

「睡蓮」


 キャンドルのライトをはさみ向かい合う二人は微笑ましい新婚夫婦だ。頬を赤らめながらシャンパンをオーダーする睡蓮の横顔は幸せそのもの。雅樹は小さく溜息を吐いて「これで良いのかもしれない」そう思った。


「ご馳走様でした」

「美味しかったね」


 薄暗がりの土塀にキャンドルの灯火が揺れ風に騒めく椰子の葉、何処からか南国の鳥の鳴き声が聞こえて来た。


「酔っちゃった」


 そう呟いた睡蓮は雅樹の腕にしがみ付いた。


(ーーーそっくりだ)


 斜め45度から見下ろす睡蓮は木蓮に瓜二つだ。


「なに、なーーんか付いてる?」

「睡蓮、顔が真っ赤だよ」

「えへへ、シャンパン沢山飲んじゃった」

「そうだね、いつもあんなに飲むの」

「私ぃ、お酒はあまり飲まないの」


 シャンパンを何杯もオーダーした睡蓮の足元は覚束なく身体からもアルコール臭が漂って来た。ふらつく肩を支えるとそれは華奢で木蓮とは違っていた。木蓮はどちらかと言えば標準体型、程よい肉付きで柔らかかった。


(ーーー細い)


 喘息を患う睡蓮は全体的に華奢で触れると壊れそうな雰囲気を醸し出していた。面立ちは同じでも体格は生活環境で異なるという事を雅樹は初めて知った。


(これなら出来るかもしれない)


 雅樹は今後の性生活について不安を抱いていた。追い求める木蓮の姉に身体が反応するのか気が気では無かった。そして睡蓮は飲み慣れないアルコールに身を任せ、の夜への恥じらいと緊張を解そうと懸命になっていた。


 雅樹がシャワーブースから出て来ると天蓋が海風にそよぐキングサイズのベットの上にキャミソール姿の睡蓮が腰掛けていた。


「睡蓮、海風は身体に障るから閉めないか」

「このままで良いですか」

「分かった」


 しっとりと濡れた亜麻色の髪、伏せ目がちな黒曜石の瞳。アルコールの酔いが醒め始めた睡蓮は雅樹から目を外らせた。


「怖いなら止めておく?」


 睡蓮は首を横に振った。


「ーーー続けて下さい」


 睡蓮の背中に雅樹が手を添え肢体はゆっくりとマットレスに倒された。唇が近付き思わず目を閉じる。


(ーーーあ)


 睡蓮は雅樹から受ける初めての口付けに身体を強張らせた。木蓮に負けたくない一心で咄嗟に雅樹の唇を奪っていた時とは違う、柔らかくしっとりと吸い付く感触。


(え、なにこれ)


 やがて舌が口腔内を這い回り睡蓮は酷く戸惑った。


(なに、なにこれ!)

「あ、ごめん。初めてだった?」

「はい」


 雅樹の指先は恐る恐る胸の膨らみに触れ、突起を唇で啄んだ。


「ーーーあ」

(感じては、いるのか)


 然し乍ら睡蓮とのセックスは木蓮との本能に赴くままの情熱的なセックスとは異なり、まるで説明書をなぞる様な醒めたものだった。雅樹の手は睡蓮の細い足首を掴み大きく広げた。


(ーーー)


 睡蓮は顔を両手で隠したまま微動だにしない。薄い茂みに指を当てがうと水から飛び跳ねた魚の様に身体を反らせた。蕾は塞がったままで広がる気配はなかった。ゆっくりと指先を押し進めると滑り気を感じる中へと辿り着いた。前後させる度に腰が恐怖で震えているのが分かった。


「睡蓮さん」

「ーーーは、はい」

「止めておきましょう、すごく緊張している」

「大丈夫です」


 雅樹は身を起こすと睡蓮の髪の毛を撫でながら優しい声色で囁いた。


「睡蓮さん初めてなんでしょう」


 睡蓮は一瞬、聞いてはならない言葉を耳にしてしまった。雅樹は何事も無かったかのように睡蓮に掛け布団を掛けると背後から抱き締めた。呼吸はやがて寝息へと変わる。


(ーーー810号室)


 睡蓮の頬に涙が伝った。


 その後、4日間の夜を共にしたが睡蓮と雅樹が交わる事はなく、雅樹は手足を強張らせたままの背中を抱きしめて朝を迎えた。


(睡蓮、どうしたんだろう)


 雅樹は酷く困惑した。睡蓮は言葉少なで始終何かを考え込んでいる様で居心地が悪かった。それは以前2人で出掛けた白川郷へのドライブを連想させた。


「あぁ、日本の空気だね」

「そうね」

「体調が悪いの?」

「元気よ」


 成田国際空港に降り立つ連絡通路に差し掛かると睡蓮は雅樹から距離を空けて歩き始め振り向きもしない。


「睡蓮、どうしたんだ」

「どうもしないわ」

「睡蓮!」


 睡蓮は無言で雑踏の中を脇目も振らずに歩いて行く。ハワイへと出立した時の笑顔は消え失せその態度の豹変ぶりに戸惑った。睡蓮は雅樹に抱かれる事なく処女のまま新婚旅行を終えた。


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