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第14話 八重咲の薔薇

数日後


 荘厳なパイプオルガンが奏る静粛な時間。祭壇には白いタキシードを着た雅樹が花嫁を待っていた。


(ーーー雅樹)


「新婦様、お父様のご入場です」


 マホガニーの重厚な扉、その光の中には睡蓮が立っていた。白いチュールレースのウェディングベールはシャンパンゴールドのドレスの裾に波打った。ヘッドドレスには水面の様なアクアマリンのスワロフスキーが光を弾き、八重咲の薔薇のウェディングブーケにはシャンパンゴールドのサテンリボンが螺旋を描いた。


(睡蓮、綺麗だわ)


 睡蓮はモーニングを着用した父親の肘に手を添え2人で深々とお辞儀をし深紅のバージンロードを静々と歩んで来た。父親は感極まり既に目元が赤く腫れている。参列席には八重咲の白い薔薇と白いサテンリボンが飾られそれは一直線に祭壇の雅樹へと続いていた。






「汝、和田 雅樹わだまさきは、この女、叶 睡蓮かのうすいれんを妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」


「誓います」


「汝、叶 睡蓮は、この男、和田 雅樹を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」


「誓います」





 結婚指輪の交換が行われ、雅樹は睡蓮の左の薬指にプラチナの指輪をゆっくりと嵌めた。木蓮の頬には真珠の様な涙が溢れ、心中を察した伊月はハンカチを差し出しその右手を優しく握った。


(あの隣に私が居たかった)


 重々しい教会の鐘の音が頭上で鳴り響く。雅樹の肘に手を添えた睡蓮が横を通り過ぎる。その頬は桜色に色付き聖堂の外で薔薇の花弁を撒く親戚や友人に微笑み掛けていた。


(ーーー木蓮)


 不意に雅樹の視線が木蓮に注がれ時間が止まった様な気がした。


「木蓮」

「あ、ごめん」


 伊月は雅樹を睨みつけると木蓮の肩を抱き寄せた。その姿を目の当たりにした雅樹は一瞬驚いた表情をして見せたが会釈をし視線を下に落とした。


 新婚旅行はハワイ、ラナイ島を選んだ。睡蓮には初めての飛行機、初めての海外旅行、そして雅樹との初めての夜を迎える。本来ならば挙式後翌日には出発するところだが雅樹の業務都合で日本出発は翌々日となっていた。


「睡蓮、伊月くんが来るから今夜はうちで泊まりなさい」

「先生が、どうして?」

「海外への旅行が身体に障るのではないかと心配されてね」

「ーーーやっぱり影響があるのかしら」

「あちらは乾燥しているらしいからね」

「ーーーそう」


 睡蓮は常用薬が妊娠出産に悪影響が有るのではないかとの懸念を抱くようになり自己判断で服用を中止していた。ブラウスの上から聴診器をあてた伊月は不可思議な面持ちになった。


「睡蓮さん、呼吸が乱れていますが薬は飲まれていますか?」

「え、と、は、はい」


 その面差しの変化を伊月は見逃さなかった。


「睡蓮さん、自己判断での服用中止は危険ですから処方された通りに続けて下さいね」

「あの、先生」

「はいなんですか」

「お薬は、赤ちゃんに影響はありますか?」


 睡蓮の口から「赤ちゃん」という言葉を聞いた伊月はなんとも微妙な気持ちになった。それは木蓮がと聞いた時よりも胸の内が騒めいた。長年恋焦がれた睡蓮がとうとう人妻になるという事実、以前木蓮に「睡蓮が幸せな事が自分の幸せ」だと断言した筈がそうではない自分が居る事に気が付いた。


(なにを馬鹿な事を、私は木蓮の婚約者なんだぞ)

「睡蓮さん」

「はい」

「喘息の方でも妊娠、出産をされていますよ」

「そうですか」


 安堵するその横顔に胸が痛んだ。


「ご心配な様ですから産婦人科への紹介状を書いておきます。旅行から戻られたら一度いらして下さい」

「ありがとうございます」

「ネフライザーの予備はありますか?」

「はい」


 伊月は蓮二と美咲に頭を下げると聴診器を鞄に仕舞い、周囲を見まわした。


「今夜は、木蓮さんは」

「婚約のお祝いだのなんだのと街に出掛けて行ったよ」

「そうですか」

「手の付けられん娘だが宜しく頼むよ」

「はい、それでは失礼致します」


 睡蓮は和かに手を振りながら伊月を見送った。


「先生、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 睡蓮の穏やかな雰囲気、血色の良い肌、伊月はその微笑みを与えられる相手が自分で無かった事を悔しく思った。


「おやすみなさい」

「あぁ、まだ冷えるから暖かくして寝るんだぞ」

「やめてよ、子どもじゃないんだから」


 睡蓮はあと1日でこの自室で眠る事も無くなるのだと感慨深く手摺りに掴まり階段を上った。あと数段というところで途切れ途切れにオルゴールの音が聞こえて来た。それは父親が誕生日に買って来てくれたおもちゃの木製のオルゴール、小さな鍵が掛かる子ども心にも気分が弾む物だった。


(ーーーメリーさんの羊)


 それは木蓮の部屋の中から聞こえて来た。


(木蓮は出掛けているのよね)


 そっと扉を開けて見たがやはり部屋の中にその姿は無かった。暗がりに目を凝らして見ると廊下の明かりに照らされたドレッサーの上にが有った。悪いとは思ったが急に鳴り出したオルゴールの音に惹かれ睡蓮は四角い箱を持ち上げた。裏返すと錆びたツマミがゆっくりと回っていた。


(ーーー鍵は掛かっているわね)


 興味本位だった。


(私のオルゴールの鍵でも開くのかしら)


 睡蓮は自室のチェストの上に置いてあったオルゴールの蓋を開き、中から小さな鍵を取り出すと踵を返して木蓮の部屋に駆け込んだ。ゆっくりと曲を奏でるオルゴール、その鍵穴に鍵を差し込み右に回すとそれは


カラカラカラ


 何かが転がる音、蓋を開けた睡蓮の表情は凍り付いた。シーリングライトのスイッチを押すと光を弾く深紅のヴェネチアンガラスの指輪、見た事のない810号室と書かれた鍵、夫の名刺。


(どういう事!?)


 睡蓮は見てはならない物を見てしまった。



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