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第11話 ノック

コンコンコン


 木蓮はベッドの上で膝を抱えて耳を塞ぎながらその気配を感じていた。睡蓮の部屋の扉をノックする音が指の隙間から漏れ聞こえて来る。和田雅樹が部屋に閉じ籠ったままの婚約者を見舞いに来たのだ。


コンコンコン


「睡蓮、睡蓮、雅樹さんが来て下さったわよ」

「睡蓮さん大丈夫ですか」


 愛おしい人の声が姉の名前を呼ぶ。


(婚約破棄なんて無理よ)


 睡蓮と雅樹が結婚すればこんな場面を何度も目の当たりにする。いっその事、雅樹の事を嫌いになれたら良いのに忘れてしまえれば良いのにと、木蓮はティディベアの一件があってから強く思うようになった。


ガチャ


 頑く閉ざされていた睡蓮の部屋の扉が開いた。これまで両親が何度声を掛けても応じなかった睡蓮が雅樹の一声ひとこえに反応した。


「睡蓮さん、どうしたんですか」

「雅樹さん」

「まぁ、ほら母さん。2人で話す事もあるだろうから」

「そうね。雅樹さんはどうぞお入りになって」

「ーーーはい」


 雅樹は横目で木蓮の部屋の扉を見た。睡蓮がその目の動きを見逃す筈も無く、雅樹の腕を引き自室へと招き入れた。


バタン


 閉まる扉、そこでどんな遣り取りが行われるのか。


「あら、木蓮どうしたの」

「ちょっと出掛けて来る」

「雅樹さんがいらしているからお寿司の出前でも取ろうかってお父さんと話していたんだけれど、木蓮もどう?」

「ーーー要らないわ」

「取り分けておく?」


 振り返ると不安げな面立ちの母親が木蓮を見詰めていた。


「じゃあ、イクラと真鯛、カンパチ、あとホタルイカ」

「早く帰るのよ」


 木蓮の笑顔は強張っていた。


「うん、伊月と会って来る」

「おお、伊月くんと会っているのか!」


 ハンバーガー屋での見合いが不発に終わってしまったのではないかと肩を落としていた父親の目が輝いた。


(ーーー睡蓮の事でね)


 睡蓮は自分が構って貰えないと嘆いているが、それこそ木蓮も自分の境遇に孤独を感じていた。


コンコンコン


「睡蓮さん、部屋に閉じ籠るなんてどうしたんですか」


 叶家から連絡があった時は単なるお嬢さまの我儘で部屋に籠っているのだろうと軽く考えていた和田雅樹も睡蓮のやつれ具合に驚きを隠せなかった。


(ーーーここまで酷いとは思わなかった)


 それは結納の晩からだと聞いた。


(まさか、木蓮と会っていた事に気付いたのか)


「睡蓮さん」

「雅樹さん、名前で呼んで」

「ーーーはい?」

「木蓮みたいに睡蓮って呼んで」


 やはり原因は木蓮だった。


「それはちょっと」

「ちょっと、なに」

「恥ずかしくて」

「木蓮は良くて私は駄目なの」


 雅樹は大きなため息を吐いた。


「睡蓮さん、あなたはもくれ、木蓮さんとは違うんです」

「どういう意味なの」

「あなたは私の婚約者で、叶さんの大切なお嬢さんです」

「ーーー婚約者」

「はい」


 睡蓮は雅樹の腕にすがり付いた。


「私は雅樹さんの婚約者なのね!?」

「ーーーそうです」

「結婚出来るのね!」

「婚約者ですから」

「木蓮とは違うのね!」

「木蓮さんは友だちの様なものです」

「そうなの!」

「だから気軽に呼び捨てに出来るんです」

「そうなの!」


 睡蓮の表情はみるみる明るいものへと変化したが、雅樹の心の中には暗雲が立ち込め諦めに近い感情が広がって行った。


(ーーー出会い方が悪かったんだ)


 和田医療事務機器株式会社は昨年度の決算が奮わず叶製薬株式会社から金銭的援助を受けたと手渡された報告書に記載されていた。これで叶家との縁談を白紙にする事は不可避となった。


(木蓮とは縁が無かったんだ)


「雅樹さん、睡蓮!」

「はい」

「お寿司が届いたわよ、下りてらっしゃいな」

「はーい」


 睡蓮は雅樹の冷たい唇に口付けた。


「雅樹さん、お寿司食べて行って!」

「は、はい」


 雅樹の笑顔は強張っていた。


 木蓮は当て所なく歩いていた。伊月に会うなど咄嗟の言い訳でしか無い。睡蓮と雅樹、それを囲む両親の幸せな団欒だんらんを見る事が辛かった。


(はぁ、ハンバーガーでも食べに行こうかな)


 悲しいかなこんな時でも腹は減る。横断歩道が点滅し走り出した瞬間、低い車のクラクションが鳴った。タイミングが悪く通行車両の妨げになってしまったのかと振り向くと、そこには運転席の窓から手を振る伊月の姿があった。


「まさかここであんたと会うとはね」

自宅いえ近いじゃないですか、今まで会わなかった方が不思議ですよ」

「そうね」

「でしょう?」


 木蓮は車内のエアコンやオーディオ機器を弄りながら革張りの助手席シートを撫で回した。


「まぁーーそれにしても外車とか、絵に描いた様な医者ね!」

「実際、医者ですから」

「だよねぇ」


 突然黙り込んだ木蓮は車窓に流れるLEDライトの景色をぼんやりと眺めた。


「木蓮、どうしたの」

「あぁ、一家団欒から逃避行よ」

「一家団欒、ですか?」

「睡蓮が部屋から出て来たのよ」

「良かった、それにしてもどうしてまた突然」


 気不味い間が空いてしまった。


「あぁ、婚約者が見舞いに来たのよ」

「婚約者」

「和田医療事務機器の御曹司よ」

「あぁ、成る程、そういう結婚ですか」

「まぁ、そういう結婚よ」


 伊月はルームミラーで不貞腐れた様な面持ちの木蓮を見遣った。


「睡蓮がその、名前は」

「和田雅樹」

「睡蓮が雅樹さんの事を好きなら木蓮も雅樹さんの事が好き」

「はぁーーーーーーー!?」

「違いますか?」

「ええええ、なに、あんた占い師かなんかなの」

「医者です」


 木蓮は薄暗がりでも分かる程に顔を赤らめて伊月に噛み付いた。


「ちっ、違うから!好きじゃないから!」

「そうなんですかーーー?」

「違うわよ!」


 車は左折し横断歩道で一時停止、自転車が通り過ぎた。


「外来に向かう時、一度食堂に戻ったんですよ」

「だからなに!」

「泣いていましたね」

「見てたの!?声掛けなさいよ!」


 信号機が赤に変わり伊月はブレーキペダルを緩やかに踏んだ。


「いつもと違う木蓮を見た気がしました」

「だからなに」

「私と付き合いませんか」

「ハンバーガー屋」

「違いますよ」


 伊月は木蓮に向き直り驚きの発言をしその突拍子もない申し出に木蓮は目を白黒させた。


「木蓮、私と付き合いませんか」

「は、はーーい?」

「清く正しい男女交際です」


 歩行者信号が点滅し、信号機が赤から青へと変わった。


「ば、ばばばばばっかじゃないの!」


すると伊月はハンドルを握りながらブッと盛大に時速120kmの勢いで失笑した。


「本気にしたんですか」

「紛らわしい!そんな真剣な顔で言われたら誰でも本気にするわよ!」

「まぁ、あながち冗談でも無い、かな?」

「なによ、その疑問形」


 木蓮の眉間に皺が寄った。


「スニーカーに木工用ボンドでも、それはそれで楽しい人生ですね」

「ヤモリは勘弁だわ」

1ctカラットの婚約指輪を差し上げますよ」

「あ、そ」

「まぁこの話はおいおい」

「でも、あんた睡蓮の事が好きなんじゃないの」

「好きだからと言って結婚出来る訳じゃないんですよ」

「ーーーそうね」


 今の木蓮にはその言葉が痛いほどよく分かった。


「木蓮が雅樹さんを諦めた頃にまたお話しましょう」

「あんたは睡蓮の事を諦めたの」

「睡蓮さんの幸せが私の幸せです」

「ーーーなに、あんた神さまかなんかなの」

「医者です」


「分かったわ、私も伊月の事は嫌いじゃないから考えておくわ」

「そうして下さい」

「そうするわ」


 木蓮は右手で髪を掻き上げ、伊月はその仕草を横目で見た。


「じゃあご馳走様」

「お粗末様でした」

「なにがよ!廻らない寿司がお粗末とか嫌味なの!?」

「また行きましょう」


 伊月は木蓮の悪態に動じる事なく柔かな笑みを浮かべた。


「今度はビックリしたドンキーでハワイアンなハンバーグよ」

「何枚でも食べて下さい」

「じゃあね!」

「おやすみなさい」


 今夜は伊月が贔屓ひいきにしている江戸前寿司で廻らない寿司を堪能して来た。


(ーーー伊月も案外面白いじゃない)


 これまで木蓮は伊月に対し、睡蓮との深刻な状況を打破する相談相手として接して来た。然し乍ら、阿吽あうんの呼吸で自身の伝えたい言葉や感情の波を察してくれる幼馴染の存在は傷心の木蓮の心を癒した。


 走り去る車のテールランプ、ハザードランプが3回点滅した。


(ドリカムかっつーーの)


 ご機嫌でショルダーバッグの肩紐を振り回していると背後に強く触れた感触があり、木蓮は「ごめんなさい!」と慌てて振り返った。そこには険しい表情の雅樹が立っていた。


「なんだよ、見合い相手はハンバーガー屋じゃなかったのかよ」

「あんたまだ居たの」

「悪ぃか、出前の寿司をご馳走になってたんだよ」

「酒臭っ!」

「少し呑んだからな」

「へへーーーん、私なんて江戸前寿司よ、廻らないのよ、凄いでしょう」

「ーーーそれで外車かよ」


 木蓮の口元はへの字になった。


「なに張り合ってるのよ、子どもじゃあるまいし」

「おまえ、幼馴染とか言ってたじゃねぇか」


 雅樹の語尾は強く売り言葉に買い言葉、木蓮の声も自然と大きくなった。


「あんたに私の事をとやかく言われる筋合いはないわ!」

「そう、そうかもしんねぇけど!」

「婚約破棄するって言ったじゃない!」

「言ったよ!」

「もう無理なんでしょう!?」

「仕方ないだろう!」


(仕方、ない)


 その言葉は木蓮から一筋の希望の光を奪い去った。


「仕方ないって言った?」

「ーーーああ」

「もう、もう無理なの」

「ーーーああ」

「あんたは私じゃなく睡蓮を選んだの」


「叶製薬から和田うちの会社に金が渡った、もう無理だ」

「お金」

「金の貸し借りみたいなもんだ」


「だから睡蓮を選んだの?」

「睡蓮じゃない、会社を選んだ」

「同じ事よ、私じゃなく睡蓮を選んだのね」


 木蓮の頬に涙が伝い、顎から落ちた粒がシャツに滲みを作った。


「睡蓮を選んだのね」


 雅樹は呆然と立ち尽くす木蓮へと手を伸ばしたが、それは力無く降ろされた。


「選んだのね」


 雅樹にとって木蓮はもう抱きしめる事すら躊躇ためらわれる存在となってしまった。


「ーーー木蓮」


 その呟きに弾かれるように木蓮は雅樹の胸に飛び込み背中に腕を回した。通りを流れるヘッドライトがその泣き顔を浮き上がらせた。


「抱いて」


 雅樹の息が止まった。


「え、聞こえない」

「今夜だけで良いの」

「ーーーな、なにが」


 木蓮の指先は小刻みに震えていた。


「抱いて、お願い、これ以上言わせないで」


 雅樹の腕が木蓮の背中を強く抱きしめた。

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