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第9話 談話室

 伊月は睡蓮の白いブラウスの上から聴診器を離した。


「叶さん」

「はい」

「前回の受診、呼吸機能検査スパイロメトリーと血液検査の結果は悪くはありませんでした」

「そうですか」


 X線撮影のレントゲン画像を写し出し、眉間に皺を寄せて顎をなぞった。


「今週に入ってから中程度の発作が2回」

「はい」

「お薬は服用されていますか」

「はい、飲んでいます」


 それにしても顔色が優れない。伊月は呼吸器内科医師ではなく個人、幼馴染の田上伊月として声を掛けた。


「睡蓮さん、この後お時間ありますか」

「あ、はい。あります」


 伊月は腕時計を確認し顔を挙げた。


「あと20分間で休憩に入ります、お茶でも飲みませんか」

「お茶」


 睡蓮は一瞬戸惑った面持ちをしたが右の手で髪を掻き揚げた。


「無理にとは言いません」


 その言葉に睡蓮は軽く頷いた。


「何処で待てば良いですか」

「んーーーー、そうですね10階の談話室で待っていて下さい」

「分かりました」

「なるべく早く行きます」

「はい」


 会計を終えた睡蓮は上階へと上るエレベーターのボタンを押した。5階、4階、3階で止まって降りて来た扉はゆっくりと開き鏡の中にその顔が映った。


(酷い顔だわ)


 頬も青ざめているが貧相で卑しい顔をしている。


(ーーー私、こんな顔をしていたかしら)


 10階のボタンを押すと2階を過ぎた辺りで壁が途切れ、眩しい日差しが睡蓮を照らし出した。思わず目を細め階下を眺めた。


(鳥になりたい)


 行き詰まった思いに首を振った。


(ーーー私、なんて事を考えているの)


チーーーン


 扉が開くと白衣を脱いだ伊月が談話室の窓際の席で手を振っていた。


  白い壁の談話室、身に着けた白いブラウスに浮き上がった睡蓮の面立ちは病院という場所に相応しく明らかに体調が思わしく無い事を表していた。伊月はこの4年間睡蓮の主治医として接して来たが、これ程までに体調が優れない姿を見た事がなかった。


(ーーー酷い顔だな)

「お待たせしました、会計が混んでいて」

「いや、僕も今来た所だから。なににする?」


 睡蓮はホットミルクを指差した。立ち昇る湯気、白いカップに付ける唇も色味が無い。伊月はここ暫く続く喘息の発作の原因は心因的緊張に依るものだと考えた。


「こうして話すのは何年振りかな」

「私が高等学校を卒業した時、お祝いに花束を持って来て下さいました」

「あぁ、そうだったかな」

「はい」


 伊月は指折り数え「7年かな、僕もすっかりおじさんだね」と言って笑い、睡蓮も口元を綻ばせた。


「ーーーそんな事ありません」

「そうかな」

「はい」

「睡蓮さんの婚約者の方は何歳なの」


 睡蓮の顔が強張った。


(ーーーやっぱり)


 今回の縁談が喘息発作の原因だと伊月は察した。先日、木蓮と会った時に睡蓮の様子がおかしい、仲違いをしているとは聞いていた。


「30歳です」

「僕より2歳も若いんだ」

「そんな2歳なんて」

「僕も早くお嫁さんが欲しいな」

「伊月さんならお医者さまだし、出会いは沢山ありそうですけれど」


 伊月はアイスコーヒーのカップを握って意を決した。


「僕には心に決めた人が居るんだ」

「そうなんですか」

「うん」

「素敵な人なんでしょうね」

「素敵な人です」


 睡蓮はまるで自分が告白されているような心持ちになり下を向いた。


「そ、そうなんですか」

「で、睡蓮さんの悩みはなに?」

「ーーーーえ」

「辛そうな顔をしているよ」


 伊月はその顔を覗き込んだ。


 睡蓮はカップをテーブルに置くと伊月の肩越しに医王山いおうぜんの山並みを見つめた。


「この前、くまのぬいぐるみを木蓮に投げ付けたんです」

「それはまた凄いね」

「小学生の時、お父さんがお土産に買って来てくれたぬいぐるみでベージュと焦茶のくまだったんです」

「睡蓮さんと木蓮の髪の色みたいだね」

「お父さんはそのつもりで買って来たんだと思います」

「それでどうしたの」


 睡蓮はカップの側面を撫でながら呟いた。


「でも木蓮に取られちゃったんです」

「ベージュのくまを?」

「はい」

「それが原因でふたりは喧嘩をしているの?」

「喧嘩?」

「木蓮が困っていたよ。睡蓮がどうして怒っているのか分からないって」

「お見合いの日ですか」

「あーーハンバーガー屋で話しただけだよ」

「ハンバーガー」

「子どもの時と変わらないよ」


 伊月は襟足をポリポリと掻いた。しばらくすると睡蓮の口から溜めていた思いが溢れ出した。


「私、元気な木蓮が羨ましかった」

「羨ましかったんだね」

「外で走り回りたかった、木にも登りたかった」

「そうなんだ」

「ワンピースも青色が良かった、ベージュのくまが欲しかった」

「欲しかったんだね」


 伏目がちな黒曜石の瞳から涙が伝い落ちた。


「くまじゃないんです、分かっているんです」

「分かっているんだね」

「ーーーでも欲しいんです」


 伊月はため息を吐いた。


「好きなんだね」


 その問いには一瞬の間があった。


「分からないんです」

「分からない?」

「伊月さん、私、分からないんです」


「初めは好きだと思っていたんです」


 伊月はナフキンを睡蓮の手に握らせた。睡蓮は溢れて止まらない涙に白い布地を押し当てながら嗚咽を漏らした。周囲は何事かと振り返ったが、伊月はテーブルの上で睡蓮の手のひらを握り静かに相槌を打った。


「でも、雅樹さんが木蓮の事が好きだって、木蓮が良いって、赤い指輪が」

「赤い指輪?」

「雅樹さんが、木蓮の為に作った指輪ーーー私には、私にはお店で、お店で買った、買ったネックレスで、木蓮には、木蓮には」

「羨ましかったの?」


 睡蓮は力強く頷いた。


「みんな、みんな木蓮に取られちゃう」

「でも雅樹さんは物ではないんじゃないかな」

「く、くまじゃないんです、分かって、分かっているんです」


 ここが誰も居ない場所だったら伊月は睡蓮を抱き締めただろう。目の前で泣きじゃくる睡蓮は出会った時の3歳の女の子となんら変わりは無かった。


「くまじゃ、くまじゃないんです」


 双子だからこそ生まれるひずみに25歳の睡蓮は翻弄されていた。



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