大安吉日 秋晴れの空に
「あぁ、木蓮さんはソファに座っていて下さい」
「はーい」
その日は朝から慌ただしかった。振袖姿の睡蓮が座敷の床間に花を生け、田上さんが床間の柱を磨きながら白木の台に赤い
「田上さん、ちょっとずれてないか」
「こうですかね」
「おお、良い感じだ」
美咲が
バタン バタン
レンガ畳みの坂の下にタクシーが到着し、門構えに人の気配が近付いた。
「おやおや、木蓮さんお元気そうで」
「お陰さまで」
仲人に次いで雅樹、雅次、百合が玄関の敷居を跨いだ。仲人の手には鶴に亀の立派な水引きで結ばれた結納品があり、雅樹は濃紺のスーツに紺色のネクタイを締めていた。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
玄関先で両指を床に突き深々とお辞儀をしたのは紺色のワンピースを着た木蓮だった。
「どうも」
「お邪魔します」
革靴を脱いだ雅樹は玄関の
(木蓮)
その熱い視線に木蓮は喉の奥が窄んだ。
(これであんたは睡蓮の婚約者になるのね)
「こちらへどうぞ」
座敷へと案内する木蓮の小指に雅樹の小指が触れ、指先に熱を感じた。
(な、なに)
顔を赤らめる木蓮だが雅樹は素知らぬ顔で座敷の
上座に雅樹と睡蓮、和田家、叶家が座り雅次が結納の挨拶を始めた。木蓮はそれを客間から茫然と眺めた。
「この度は、睡蓮さまと息子雅樹に、素晴らしいご縁を頂戴いたしましてありがとうございます。本日はお日柄もよく、これより結納の儀を執り行わさせて頂きます」
その言葉が右から左へと素通りした。
百合が前に進み出て結納品を睡蓮の前に置いた。
「そちらは私ども和田家からの結納でございます。幾久しくお納めください」
緊張の面持ちの睡蓮は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」
その後、幾つかの遣り取りが交わされたがそんなものは全く頭に入って来なかった。初めて見る雅樹の神妙な横顔、頬を赤らめる睡蓮、木蓮はこの場から逃げ出したい衝動に駆られたがそれを必死に堪えた。
結納の儀は滞りなく終わり客間で待つ皆に向かって田上さんが声を掛けた。料亭に向かう為、配車依頼の黒塗りハイヤーとジャンボタクシーがレンガ畳みの坂の下に到着した。
「じゃあ、ハイヤーにはお仲人さんと雅樹、睡蓮さんをお願いね」
「分かったよ」
「お願いします」
後部座席に乗る睡蓮の結上げた髪が崩れない様に雅樹がドアに手を掛けてエスコートし、振袖の
(ーーーあそこに座っているのが自分だったら)
ふと後部座席の睡蓮と目が合い、心の中を見透かされた様で視線を落とした。
(なにを今更、なにも言わなかった自分が悪いのよ)
そこで木蓮は父親がアメリカから土産に持ち帰ったティディベアを思い出した。あの時はなにも考えずにソファに駆け寄り自分の好きな色のぬいぐるみの腕を取った。その隣で自分の意に沿わないぬいぐるみを抱き締めていた睡蓮も今の自分と同じ様な歯痒さを感じていた事だろう。
(ーーーでも)
あの時睡蓮が「私もベージュのティディベアが欲しい」そう口にしていれば事態は変わっていた。
(雅樹はぬいぐるみじゃ無いわ)
今回の縁談では睡蓮が先に「和田雅樹と結婚したい!」と言った。
(あいつはぬいぐるみじゃ無い、分かってる)
和田雅樹がぬいぐるみの熊ではない事は重々承知、然し乍ら
そして祝いの席は卯辰山から浅野川を見下ろす料亭で行われた。雅次の脚の具合が優れず座敷ではなくテーブル席が設けられた。木蓮は徳利とビール瓶を手に両家の面々や仲人に酒を注いで回った。
(ーーー感傷に浸る間も無いわ)
ひと段落ついたところで化粧室に向かった。
(もう、汗だく)
鏡に映った顔は油ぎってファンデーションがよれていた。
(ーーーふぅ)
あぶらとり紙で鼻の頭を押さえていると人の気配がした。鏡の中には濃紺のスーツと紺色のネクタイが映り込み、視線を挙げるとそこには雅樹が立っていた。
「ーーーーちょっ」
「しっ」
「しっじゃないわよ!ここ、女性用よ!犯罪よ、あんた!」
木蓮の口を手で塞いだ雅樹は後ろ手で施錠した。
「木蓮、会いたかった」
並んだ鏡に映る二人、ドレッサーライトに照らされた木蓮を雅樹は力任せに抱き締めた。
「あんた、睡蓮の婚約者じゃない」
「まだ結婚はしてない」
「そのうち「まだ子どもは出来ていない」とか言い出すんじゃないの」
雅樹の手が木蓮の顎を掴むと唇を深く塞いだ。上唇を啄み下唇を喰む、力無く落ちていた木蓮の指先が躊躇いながらスーツの背中に回され、強く握った。木蓮のワンピースの股を雅樹の太腿が割り、深く擦り挙げた。
「ーーーー!」
木蓮の肢体が跳ね上がった。
「睡蓮とは婚約破棄するつもりだ」
「なに言ってんの!」
「俺はおまえが良い、おまえと結婚出来ないならこの縁談は白紙にして貰う」
「あんた頭おかしいんじゃ無いの!」
その言葉は唇で塞がれ口腔内を舌が這い回り始めた。
「ーーーーん」
雅樹の太腿は強弱を付けて木蓮を刺激し始め、木蓮の手はスーツの背中を伝うと雅樹の臀部を抱え強く引き寄せた。ドレッサーライトがカタカタと音をたて、ハンドソープのボトルが転がり床に落ちた。我に帰った木蓮は右手で髪の毛を掻き上げながら雅樹を睨んだ。
「あんたは睡蓮の婚約者よ」
「そんな婚約者とこんな事をしているおまえはなんだよ」
「馬鹿よ、大馬鹿者よ」
雅樹はスーツの内ポケットから名刺を取り出し裏返して見せた。
「俺の個人用携帯電話の番号だ」
「な、なによ」
「破いて捨てても良いおまえの好きにしろ」
それを手渡した雅樹は化粧室から出て行った。「きゃっ」と小さな悲鳴が廊下に響き、謝罪する声が聞こえた。
「ーーーもう遅いわよ」
木蓮は名刺をポケットに入れた。
乱れた髪を整え口紅を塗り直して席に着くと睡蓮の視線を感じた。それは鋭利な刃物の様に鋭く「あなた
(ーーーまさか、気付いている?)
「ねぇ、睡蓮さん」
「はい」
美咲に声を掛けられ振り向いた睡蓮は明るい笑顔で受け答えをし、雅樹と談笑している。その憎しみは木蓮ひとりに向けられていた。
祝いの席はお開きとなり両家それぞれハイヤーに分乗し帰路に着いた。化粧室での逢瀬以降、雅樹は木蓮を振り返る事は無かった。
それは深夜、誰もが寝静まった頃の事だった。
コンコンコン
突然部屋の扉がノックされ、時計を見ると時刻は午前0時を過ぎていた。
「だ、誰」
「木蓮、私」
睡蓮だった。木蓮は思わず身構え、声が上擦った。
「こんな時間になに」
「話があるの、入って良い?」
「ーーー良いわよ」
お揃いで買った色違いのパジャマ、和田雅樹と出会う半年前までは睡蓮は木蓮を、木蓮は睡蓮を自分の半身の様に思って来た。
「ーーー今日はありがとう」
「どういたしまして」
ベッドに片肘を突いた木蓮を、睡蓮が見下ろしていた。
「な、なによ。怖い顔して」
「木蓮が部屋の外に出てから雅樹さんも席を立ったわ」
「そうなの、知らなかったわ」
「嘘つき」
「なにがよ」
「雅樹さんから木蓮のコロンの匂いがしたわ」
心臓が跳ね上がった。
「同じ、同じ部屋に居たからじゃない?」
「そうかしら」
「そうよ」
睡蓮の右手には片腕を掴まれた焦茶のティディベアがだらりとぶら下がっていた。そのガラス玉の目は何処を見ているか分からない漆黒の闇。睡蓮の形相が鬼気迫るものとなり、大きく振りかぶるとティディベアを木蓮へと叩き付けた。
「痛っ、なにするのよ!」
「渡さない!」
「なにが!」
「雅樹さんは木蓮には渡さない!」
「あいつは物じゃないのよ!」
「こんな色のティディベアなんて要らなかった!木蓮には負けない!」
「睡蓮!」
睡蓮は斜め向かいの自室の扉を激しく閉め、その音に驚いた両親が階段を上って来た。
「どうしたんだ」
「ーーーーーー」
「あれは睡蓮なの?」
「うん」
「どうしたんだ」
「疲れているんじゃない?」
「そうよね、結納で疲れたのね」
結納。
(ーーーー睡蓮、あんたまさか)
この結婚への思いは和田雅樹への愛情なのか木蓮への対抗心なのか、睡蓮は自分自身を失い掛けていた。