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第6話 主治医

 医療費支払いや処方箋番号が響くロビー。白い壁には手すり棒が設置され、全面ガラス張りの中庭にはイングリッシュガーデンの小屋が建っていた。赤茶の瓦屋根、古びた木戸、黄色い薔薇の蔦、可愛らしい小花や青いハーブが風にそよいでいる。


「085番、叶さん、叶睡蓮さん」

「はい」


 呼び出し番号の紙を握っていたのは黒いワンピースを着て髪をハーフアップに緩く纏めた睡蓮だ。扉を三回ノックすると、柔らかく包み込むような男性の声が診察室へと招き入れた。


「失礼します」

「いらっしゃいませ」

「先生、患者にいらっしゃいませは可笑しいですよ」

「そうですね」


 銀縁眼鏡に自然なウェーブ、睡蓮とよく似た薄茶の髪、白衣に揺れるネームタグには呼吸器内科医師、田上 伊月たがみいつきと印刷されていた。叶家に長年支える田上さんの孫だ。


「一昨日、発作があったそうですね。お母さまから連絡がありました」

「いやだ、お母さんったら」

「発作を起こす前になにかありましたか」

「雨に濡れて、少し走りました」

「あ、雨ですか」

「子どもみたいですね」

「いいえ、そんな事はありませんが喘息は拗らせると長引きますから無茶はしないで下さいね」

「はい」


 問診を行いながら伊月はパソコンに睡蓮の体調を打ち込み始めた。


「日常生活でなにか変わった事はありましたか」

「あ、私、お見合いをしました」

「お見合い」


 伊月の指先が止まった。


「どうかしましたか」

「え、いえ。その縁談は進んでいるんですか」

「はい、このまま上手く進めば纏まると思います」


 伊月は聴診器を取り出すと睡蓮のワンピース越しの胸部にそっと押し付けた。


「良い方ですか」

「はい、活動的でしっかりした方です」

「睡蓮さんとは正反対ですね」

「そうですね」


 ゆっくりと波打つ鼓動、肌の温もり。


「はい、吸って下さい、止めて、はい、吐いて」


 伊月は睡蓮の肺に多少の異音を感じた。


「少し肺機能が弱いかも知れません。呼吸機能検査スパイロメトリーと血液検査も行っておきましょう」

「はい」

「ネフライザーは二本処方しますので二週間後、再診という事で予約を取っておきます。今日と同じ10:30で良いですか」

「お願いします」


 伊月は椅子から立ち上がった睡蓮の顔を覗き込んだ。


「精神的ストレスも喘息を悪化させます、あまり緊張しないように」

「ーーーーストレス」

「木蓮さんに相談してみては如何ですか」


 睡蓮の表情が固まった。


「どうかされましたか」

「いいえ」

「それではまた二週間後に、お大事に」

「先生は日曜日にんですよね」

「あ、お聞きになられましたか」


 木蓮の見合い相手は睡蓮の主治医、金沢大学病院呼吸器内科医師、田上 伊月たがみいつき32歳だった。


 睡蓮が作った献立はロールキャベツ、その次はビーフシチュー、またその次は金沢郷土料理の治部煮じぶにとレパートリーに富んでいた。


「睡蓮さんは和食もお上手なのね!」

「お手伝いの方に教わりました」


 治部煮は鶏肉ではなく本格的に鴨肉、山葵わさびも和田家のキッチンを借りて鮫皮で擦りおろし、その丁寧な仕事振りに雅樹の母親は感動した。


「こりゃあ、美味い!」

「美味しいわね、ね、雅樹さん」

「美味い」

「良かった」


 雅樹と睡蓮、雅樹の両親の四人で食卓を囲み、不本意にも美味い睡蓮の手料理に雅樹は舌鼓を打った。


家族団欒 かぞくだんらん、新婚夫婦かよ!)


 しかも美咲は睡蓮を親戚が集まる茶会に招き、抹茶を点てさせたという。


「礼儀作法もしっかりしていて、鼻高々だったわ」

「そうかよ」

「点てたお抹茶もきめ細かな泡で美味しかったわ」

「そうかよ」


(もう、結婚一直線てやつじゃねぇか)


 木蓮とは夕暮れの公園で会い、それ以来顔も見ていない。その間も睡蓮との縁談は纏まりつつあり両家では結納の話題が持ち上がっているようだ。




日曜日

 睡蓮は雅樹の運転する車で白川郷しらかわごうの合掌造りを見に行く事となった。遠出をした事がない睡蓮は大層喜び、サンドイッチと唐揚げをバスケットに詰めた。


「睡蓮はご機嫌ね」

「サンドイッチは父さんの分はないのかい」

「ちゃんとここにあるわ、ベーコンレタスサンド、お母さんにはチーズトマトサンド、木蓮は」

「木蓮は出掛けたぞ」

「あぁ、お見合いね」

「そーーーんな堅苦しいもんじゃないけれどな」


「じゃあ、行って来ます!」


 雅樹と睡蓮はレンガだたみの坂で待ち合わせした。振り向くと父親が手を振り母親が深々とお辞儀をしていた。


「やだ、恥ずかしい!」


 雅樹は運転席から降り、会釈した。


「もう、子どもじゃないのに」

「睡蓮さんの事が心配なんだよ」


 この頃になると二人の会話も弾むようになっていた。然し乍ら、流れる新緑の車窓を嬉しそうに眺める睡蓮の微笑みを見る度に雅樹は木蓮の事を思い出した。車のダッシュボードの中には深紅の指輪が転がっている。


「あ、睡蓮さん。ダッシュボードに地図があるから出して」

「ナビゲーションは使わないんですか」

「旧道に綺麗な滝があるんだよ」

「分かりました」


 睡蓮の指先がダッシュボードの取手に掛かった瞬間、雅樹は深紅の指輪を入れたままにしていた事を思い出した。


「ーーーあっ!やっぱり新道で行こう」


 遅かった。


「これ、木蓮の」


 ダッシュボードの中で光る深紅の指輪。


for mokuren masaki


「ーーーいつ、いつ木蓮と会ったんですか」

「これはもう返すからって言われて」


 革のハンドルを握る手に汗が滲んだ。睡蓮からこれまでと違う刺々しいものを感じてその顔を見る事が怖かった。


「いつ返してもらったんですか」

「いつだったかな」

「何処で会ったんですか」

「何処だったかな、会社のロビーだったかな」

「誤魔化さないで」


 そして雅樹は言葉を失った。


「木蓮、今日お見合いをしているんです」


 前を走る車のテールランプが点った。交通渋滞の列で雅樹と睡蓮は動けなくなってしまった。


 一般的な珈琲の香りと油臭が漂う店内。奥の席では小学生が任天堂のゲーム機を振り回して遊び、隣の席では高校生が気怠げにテーブルに肘を突きながらあの子が可愛いだの、別れただのと青春を謳歌おうかしている。


ピコーンピコーンピコーン


「テーブル席10番のお客さま!10番のお客さまご用意が出来ました!10番のお客さまーーー!」

「あ、うちらじゃん」

「本当だ」


 脚を組んでいたカーゴパンツが立ち上がり注文カウンターからトレーを二枚運んで来た。


「はい、どうぞ」

「ありがとうって、ポテトのLサイズはあんたでしょ!」


 テーブルのラミネートされたオーダー表を窓際に立て掛け、トレーを受け取った女性が文句を言いつつ口元を尖らせた。


「芋は芋だと思いますが、五本、六本で細かい事は言わない」


 ビッグマック

 フィレオフィッシュ

 ポテトのLサイズ

 アイスコーヒー


 トレーに其れ等を乱雑に置いたのはカーキのシャツに白いカーゴパンツの伊月。


「なに、なんなら数えてみる?」


 ビッグマック

 チーズバーガー

 ポテトのMサイズ

 アイスティー


 トレーに其れ等を整然と並べたのは黒いワンピースを着た木蓮だった。


「意外と細かいですね」

「意外と繊細なのよ」


 伊月が木蓮の上半身をまじまじと見た。


「なによ」

「いや、珍しい格好だなーーーと思って」

「見ないでよ」


 木蓮が丸襟にピコフリル、前身頃とスカートの裾にピンタックが施された装いを強要された理由はこの時間が一応だからだ。然し乍らその脚は組んで脹脛ふくらはぎが丸見えだった。


「木蓮、その脚はどうにかなりませんか」

「この方が楽だわ」

「そうですか、同じワンピースでも大違いですね」

「あぁ、睡蓮」

「はい」

「あんた睡蓮の事は気に入ってるもんね」


ブホッ


 睡蓮と木蓮、そして伊月は7歳違いの幼馴染だ。伊月がお手伝いの田上さんと叶家に遊びに来たのが10歳、睡蓮と木蓮は3歳と悪戯盛りだった。


「幼馴染との見合いってうちの親はお馬鹿さんなの!?」

「ーーーー確かに」

「あんた私の背中にヤモリ入れたわよね!」

「そう言う木蓮も私のスニーカーに木工用ボンド入れましたよね」

「確かに入れたわね」

「あれ、高かったんですよ」


 二人でズズズとストローをすすった。


「ーーーーで、私と伊月は結婚するの」

「ーーーーまさか!」

「即答なのね」

「木蓮はしたいんですか」

「ーーーーまさか!」


 バリバリと包みを開けてビックマックにかぶり付くと木蓮の口元にケチャップがはみ出した。伊月がそれを指先で拭う。この場面だけ見れば恋人同士に見える。


「あんた、今、私の事を睡蓮だと思ったでしょう」

「ーーーー」

「睡蓮に告白しちゃえば良かったのに」

「まさか見合いをするなんて思ってもみませんでしたから」


 口からポテトを三本垂らした木蓮がニヤニヤと笑った。


「トンビに油揚げ掻っさらわれたわね」

「本当にそうです」

「グズグズしてるからよ」

「ーーーーはい」


 伊月はテーブルに落としていた視線を上げた。


「好きです!結婚してください!」

「ゲロゲロ」

「言えば良かった」

「今ならまだ間に合うわよ、結納も未だだし」

「まさか!叔父さんたちに背くことなんて出来ません」

「時代劇か!」


 そう冗談を言いつつも「こいつが睡蓮に告白してどかーーんと事態が変わらないものか」頼りなさげな銀縁眼鏡を眺めた木蓮はチーズバーガーのピクルスを唇に挟んだ。


 白川郷の片隅、二人は木のベンチに腰掛け睡蓮お手製のバスケットを開いた。ところが深紅の指輪は睡蓮の心に黒いインクを落とし、沈んだ表情はいつになっても暗いままだった。


「サンドイッチ、美味しいよ」

「ありがとうございます」

「唐揚げも自分で揚げたの」

「はい」


 睡蓮は目も合わせない。


「竜田揚げ、好きなんだ」

「はい」

「睡蓮さん、どうかしましたか」

「はい」


 拗ねた素振りの睡蓮に雅樹は手を焼いた。


「五平餅は食べなくて良いんですか」

「食べません」

「そうですか」


 確かに睡蓮の目に付く可能性がある場所に木蓮へ贈った指輪を入れておいた事については配慮に欠けていた。


(けれどなんでここ迄、この子に気を遣う必要があるんだ)


 まだ結納を交わしてもいない睡蓮に振り回される事に雅樹は辟易した。


(ーーー疲れる)


 両家、両親は雅樹が睡蓮を妻として迎えると信じて疑わない。睡蓮自身もそれを強く希望している。


(分かっている、和田家の為の政略結婚だ。それは分かっている)


 然し乍ら、睡蓮の気質や気性が雅樹の肌に合わないと日に日に強く感じる様になっていた。


(このままこの子と結婚しても上手く行く筈がない)

「睡蓮さん」

「はい」

「渋滞する前に帰りましょうか」

「はい」


 睡蓮はサンドイッチに手を付けなかった。その半分以上が無駄になってしまったバスケットの蓋を閉める瞬間、雅樹はこの1日がなんであったのかと虚しくなった。


「夕焼けが綺麗ですね」

「はい」


 睡蓮は海岸線を見る事もなく力無く答えた。


(息が詰まる)


 雅樹はアクセルを力強く踏み、高速道路を一路金沢市へと向かった。


 見合い相手ともなればお決まりの台詞がある「この後、お食事でも行きませんか」金沢市に戻った雅樹は慣例に習い睡蓮を食事に誘った。


「今夜は帰ります」

「あ、そうですか」


 何気にそう答えたつもりが睡蓮の琴線きんせんに触れたのだろう。レンガ畳みの坂に着くと強い眼差しで雅樹を見据えて助手席のドアを開けた。


「睡蓮さん?」

「おやすみなさい!」


 後ろ手に締められたドア、雅樹は運転席から降りて後を追おうとしたが踏み出した足がレンガに貼り付いた様に動かなくなった。


「ーーーなんなんだよ」


 本来ならば玄関先まで送り届けご両親に挨拶のひとつもするべきなのだろう。けれどそれが急に馬鹿らしくなった。これで「白紙に戻したい」と言ってくれれば逆に御の字だ。


 後方発進で車を転回させポプラ並木を何本か数えた時、薄暗い街灯の下をワンピースを着た木蓮が歩いて来るのが見えた。後方を確認して後続車がいない事を確認し、雅樹は運転席から飛び出した。


「木蓮!」

「ぎゃっ!な、なに!」

「ぎゃって、それは無いだろう」


 1ヶ月振りのその姿に雅樹は思わず抱き付いた。


「突然飛びつかれたら誰でもぎゃっって、ちょっと離れなさいよ!」

「おまえ、油臭い」


 ロイヤルブラウンの髪からはハンバーガーショップの匂いがした。


「おまえ、見合いじゃなかったのか」

「な、ん、で、知ってるのよーーー!」


 木蓮は両手で雅樹の胸板を押し除けた。


「睡蓮から聞いた」

「睡蓮から、あぁ、あんたたちドライブだったわね」


 雅樹はその問いには答えず矢継ぎ早で木蓮に問いかけた。


「相手の名前は!」

「田上伊月」

「年齢!」

「32歳」

「俺より歳上か!仕事は!」

「金沢大学の医者」

「医者かよ!くそ!」


 その必死な形相に木蓮は吹き出した。


「なに焦ってんの、幼馴染のお兄ちゃんよ」

「幼馴染!?」

うちの親もなにを考えているんだか」

「はぁーーーーーーーー焦った」


 雅樹は両膝に手を突いて鋪道に屈み込んだ。


「あんたなにやってんのよ」

「おまえが見合いって聞いた時は死ぬかと思ったわ」

「突然死ね、ご愁傷さま」

「茶化すなよ」


 木蓮はその言葉に面持ちと声色を変えた。


 頬の涙をぬぐいながらレンガ畳みの坂を上り門構えに足を踏み入れた木蓮は暗闇に浮かぶ人の気配に小さく悲鳴を上げた。


「ひっ!」


 目を凝らすとそこに立っていたのは籐のバスケットを両手で持ち、髪を緩く三つ編みにした睡蓮だった。その目は鋭く強烈な光を放ち、木蓮を素通りしてポプラ並木を見下ろしていた。木蓮が後ろを振り返ると交差点で雅樹の運転する車のブレーキランプが点った。


「おかえり」

「ただいま」

「雅樹さんとなにをしていたの」


 木蓮の心臓は跳ね上がった。然し乍らこの角度では二人の姿は車体の影で目視出来ない筈だ。喉仏がゴクリと鳴った。木蓮は努めて平静を装いながら右手で髪の毛を掻き上げた。


「挨拶をしただけよ」

「あんなに長い間?」


 睡蓮は雅樹が自分の背中を追って来てくれるのではないかと坂の上で待っていた。そこへ横断歩道を渡った木蓮が歩いて来た。


(ーーーー雅樹さん?)


 車のブレーキランプ、次いでハザードランプが点滅し、運転席から雅樹が飛び出して木蓮に駆け寄った。


(どういう事?)


 ポプラ並木の狭間に立つ二人、仲睦まじくしている様子が窺えた。


「五平餅、美味しかったか聞いていただけよ」

「雅樹さんはなんて言っていたの」

「美味しかったって」

「ーーーー五平餅は食べなかったわ」


 木蓮の脇に汗がジワリと滲んだ。出掛ける前に睡蓮が「五平餅を食べるの」と嬉しそうに話していたのを小耳に挟んでいた木蓮は、二人で食べたものだと思い込んでいた。


「あ、あれ?そうなの?騙されたーー!」

「騙された?」

「あ、うん」

「騙しているのは木蓮じゃないの?」


 睡蓮の声が低くなった。


「木蓮、あなた嘘を吐く時はいつもそれよね」

「え、なんのこと」


 睡蓮は木蓮の右手が掻き上げた髪を指差した。


「ーーーたまたまよ」


 睡蓮の眉間に皺が寄った。

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