「ーーーどうしてこうなるかなぁ」
木蓮は部屋のベッドに腰掛け、ため息を吐きながら枕元に置かれたシリアルナンバー入りのティディベアを眺めた。これは小学六年生の時、父親がアメリカ出張の際に土産物として二人に贈ったぬいぐるみだ。
「お土産だよ」
父親がソファに座らせたのはビターチョコレートに似た焦茶と、ミルクティーのようなベージュのティディベアだった。二人の娘の髪の色に合わせて買い求めたのだが想定外の出来事が起きた。
「これ、私、これにする!」
「ーーーえっ」
真っ先にソファに駆け寄った木蓮の手はベージュのティディベアを握っていた。睡蓮は無言で焦茶のティディベアを抱きしめたが実際は自分の髪の色のティディベアが欲しかったらしくベッドの中で泣いたと言う。
「あの時は父さんが失敗したよ、同じ色を買えば良かった」
「そんな事があったんだ」
木蓮がその事を父親から聞いたのは高校生になってからだった。
そして高等学校の卒業式、桜が綻ぶ頃の出来事だった。
「へぇ、あんなタイプが良いの」
「ーーーーうん」
睡蓮は高等学校2年生の時、バスケットボール部に所属している一学年上の男子生徒に恋心を抱いていた。普段は受動的な睡蓮がバスケットボールの校外試合を観に行くと言い出した時、木蓮は驚きを隠せなかった。
「分かったわ、着いて行ってあげる」
「ーーーありがとう」
そうして二人は体育館の2階からコートを走り回る姿を眺めた。その先輩が卒業する、睡蓮はバスケットボールを刺繍したハンカチと手焼きのクッキー、初めて書いたというラブレターを袋に詰めた。
「ーーー恥ずかしい」
「分かったわよ、私が渡してくるわ」
「ーーーありがとう」
桜の樹の下で事件は起こった。その先輩はプレゼントが木蓮からのものだと思い逆に木蓮が告白されてしまった。
「叶さん、卒業しても付き合ってくれないかな」
「えええーーーと、違うんだけどな」
「どういう事」
「これ、姉からなの」
「あーーー、そういう事か、ならごめん!」
引っ込み思案な睡蓮よりも華やかな木蓮が人目を引いた。
「あ、あのさ睡蓮」
「どうだった?」
「彼女がいるんだって」
「そうなの」
「そう!」
「そうなの」
「次よ、次!」
「次なんてないわ」
嘘も方便でこの件が露見する事はなかったが木蓮は冷や汗をかいた。
「あーーーーでもヤバかった!」
「なにがヤバかったの」
「なんでもないわ」
「そうなの?」
「なんでもない、なんでもない」
自分の好きな人が妹に好意を抱いていると知ったら睡蓮は酷く落ち込むだろう。
例のティディベアの一件から始まり、その後も選ぶ服、習い事、好意を寄せる男性など木蓮と比較される度に睡蓮の気持ちは沈んだ。
「木蓮はなんでも出来るから羨ましいわ」
「睡蓮はもっと自分を出さなきゃ駄目よ」
「木蓮みたいには出来ないわ」
「そーーんな事ないって!出来る、出来る!」
一度落ち込むと悲観的になる弱い面を持つ睡蓮に対し、木蓮は次第に気を遣う様になった。
「睡蓮、大丈夫か」
「無理しないで、木蓮にお願いしたら?」
そして両親も気管支喘息の
(睡蓮もなぁ)
これまで木蓮は周囲に配慮して生きてきた。
(こんなのってアリ?最低じゃない)
そこに現れたのが和田雅樹で本音で気兼ねなく話す事が出来た。それが恋心だと気付いた時、雅樹は睡蓮の想い人、婚約者となっていた。
睡蓮はビターチョコレートのティディベアを胸に抱いてベッドに寝転んでいた。脳裏に浮かぶのはこのぬいぐるみを手にした瞬間の虚無感、悲しみ。
(ベージュのくまが良かったのに)
一目散にソファに駆け寄ってベージュのティディベアの腕を掴んだ木蓮の満面の笑み、父親は戸惑っていたがなにも言わなかった。
(じゃんけんする事だって出来たわ)
けれど一番腹が立つのは「これが良い」と言い出せなかった睡蓮自身だった。木蓮に「私もそれが良い」と言わなかった癖に隠れてベッドの中で泣き、母親に頭を撫でられていた自分。
(自分が嫌い)
睡蓮は両親や木蓮からの過保護ともいえる気遣いを肌で感じていた。
(自分が嫌い)
睡蓮は自分の情けなさや弱さを重々承知していた。一人で頑張ろうと決意した事もあるがそれは難しかった。
(自分が嫌い、木蓮も嫌い)
同じ母親から生まれ同じ顔であるにも関わらず、睡蓮は気管支喘息を患い部屋の中から窓の外を眺め、健康な木蓮は庭を所狭しと走り回っていた。
「木蓮、危ないよ」
「だーいじょうぶー!」
心配そうに空を見上げていた睡蓮も木蓮の様に泰山木の枝に座って浅野川の景色を見たかった。いつしか睡蓮は、自分が内向的で受動的なのは身体的に劣っているからだと思う様になった。
(木蓮が嫌い)
その微妙な均衡が和田雅樹と出会った事で揺らぎ始めた。睡蓮自身、この見合いで雅樹にときめきはしたものの縁談にはそれ程乗り気ではなかった。
(あの赤い指輪)
for mokuren masaki
雅樹が木蓮に贈った深紅の指輪を見つけた瞬間、これまで抑えていた睡蓮の負の感情が許容量を超えて溢れ出した。
(木蓮には負けたくない)
和田雅樹は決してくまのぬいぐるみでは無い。然し乍ら睡蓮の心には恋情という殻に包まれた、別の感情が芽生えていた。
朝日が差し込む叶家のダイニングテーブルでは三人の会話が弾んでいた。
「睡蓮、おまえ彼方さんのお宅にお邪魔したんだって?」
「うん」
「こりゃあ驚きだ」
「やめてよ」
「
「なにをだ」
「睡蓮が作ったお料理を雅樹さんが美味しいってお代わりしたんですって!」
「あぁ、ロールキャベツか」
「うん」
「睡蓮のロールキャベツは美味いからな!父さんにも作ってくれよ」
「うん」
木蓮はその話題の中に入る事が出来ず味噌汁の豆腐を摘んでは崩していた。いつもならば「ええー、すごい!」と相槌を打つ所だが、喉の奥に魚の小骨が刺さった様で言葉が出ない。
「どうしたんだ」
その表情に気付いた父親が怪訝な顔をした。
「木蓮、身体の具合でも悪いの?」
母親がその横顔を覗き込んだ。
「ううん、なんでもない」
「そんな事無いでしょう、なんだかおかしいわよ」
ふと顔を挙げると睡蓮の目が笑っていない事に気が付いた。自分がなにをしたと言うのだ。睡蓮の変化に木蓮は気不味さとひと匙の怒りを感じた。
(あいつと結婚出来るんだから良いじゃない!)
すると能天気な父親がとんでもない事を言い出した。姉の睡蓮の縁談が纏まりそうなので木蓮が
「なんだ、寂しいのか」
「なにがよ」
「睡蓮が嫁に行くから寂しいんだろう」
「子どもじゃあるまいし、変な事言わないでよ」
そして両親は顔を見合わせて頷いた。木蓮が味噌汁に口を付けた瞬間、とんでもない言葉が転がり出た。
ぶっ!
「な、今、なんて言ったの!」
「おまえに縁談の話が来ている」
「ふはぁーーーーーーーー!?」
「ゴルフの掛け声みたいだな。朝からご近所迷惑だぞ」
懲りない父親はティディベアをもう一体
「お父さん、懲りないわね」
「なにがだ」
「私は振袖なんて着ないわよ」
母親は笑顔を崩さない。
「木蓮の事をよくご存知な方だからいつもの服装で良いそうよ」
「ふはぁーーーーーーー!?」
「ご近所迷惑だぞ」
木蓮の年齢と見合う両親が歓迎する結婚相手、思い当たる人物が一人だけ居る。