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第4話 雨の夜

 雅樹はベンチから立ち上がる事が出来なかった。手元に戻って来た深紅の指輪、その感触に胸が締め付けられた。


(一旦白紙に戻して下さい、お願いします)


 あれはもう二度と 叶 木蓮 と会わない、叶家との縁を断ち切る事を意味していた。睡蓮と結婚すれば木蓮とは生涯親戚付き合いを続ける事となり、やがて木蓮が見知らぬ男と結婚し家庭を築く姿を目の当たりにしなければならない。そんな事は耐えられなかった。


(なんでだよ)


 それならばいっその事、他企業の子女と見合いをして和田の跡取りとして生きる道を選ぼうと両親に願い出たがそれは受け入れられなかった。


(分かってるよ)


 県内で叶製薬株式会社ほど老舗しにせで今後の発展が見込める企業はなく、和田医療事務機器株式会社にとってこの縁談を逃す手は無かった。


「おまえは和田の後継者なんだぞ」

「分かってるよ」

「頼んだぞ」

「分かってるよ」


 木蓮と出会う前は誰でも良かった。仲人が 叶睡蓮 と 叶木蓮 の見合い写真と釣り書きを持って来た時も「同じ顔じゃないか」「茶道に華道、こっちの方が和田に合いそうだな」と自身もそう思っていた。それは全くの見当違いだった。


ピッ


 車のルームミラーを覗くと口元に赤い線が付いていた。木蓮に口付けた時の名残りだ。雅樹は口紅の跡を拭う事も惜しく、唇に触れた感触と温もりを反芻した。


(ーーー木蓮しか考えられない)


 革のハンドルに額を預けた雅樹は物事が思うように進まない現状に苛立ちを感じた。フロントガラスに雨が打ち付け始めた。


「ただいま帰りました」


 玄関の扉を開けるとベージュ色のパンプスが揃えられていた。リビングから機嫌の良い父親の笑い声、普段よりも高い声色の母親の話し声が聞こえて来た。


(来客か、えらい賑やかだな)


 夕飯時に訪ねて来る客も珍しい。ビジネスバッグを階段に置き、扉を開けた雅樹は気が動転し一歩後ろに退いてしまった。


(も、木蓮)


 いや、違う。髪は亜麻色で仕草も柔らかく丁寧だ。


「睡蓮さん、どうして」

「どうしたもこうしたも、婚約者が遊びに来たんだ嬉しいだろう」

「ちょ、父さん」


 こう度々本人睡蓮の前で「婚約者が」「婚約者だろう」と発言されると両家の親たちが睡蓮との結婚を外堀そとぼりから埋めているようで雅樹は気が気では無かった。しかもそれを耳にする睡蓮の頬は赤らみとても嬉しそうだ。


(困ったな)


 そこで雅次が木蓮の口紅に気が付いた。


「ん、なんだ。雅樹、おまえ口の周りが赤いぞ」


 睡蓮の目の前で指摘され心臓が跳ね上がった。


「あーーと、差し入れで食べた飴かな。顔洗って来る」

「そうしなさい」


 そう言って頭を掻く雅樹の仕草ひとつにも睡蓮は微笑んでいる。


「いやぁ睡蓮さん、幾つになっても子どもみたいでお恥ずかしい」

「いえ、そんな事はないーーです」


 その後、睡蓮が持参したロールキャベツが食卓に並んだ。確かに料理の腕は確かだ。母親の味付けより薄味だが素材の味が活きている。雅樹は素直に感嘆の声を上げた。


「うまい!」

「雅樹さん、美味しいと言いなさい。失礼でしょう」

「いえ、喜んで頂けてーーー嬉しいです」


「睡蓮さん、本当に美味しいよ!お代わりある?」


「あーー父さんの分をやるから、本当に子どもみたいだな!」

「また、また作って来ます」

「ありがとう」


 お礼の言葉を口にした雅樹は我に帰った。これも両家の作戦だったのかも知れない。なにやら父親がほくそ笑んでいる様に見えた。


(あれか、先ずは胃袋を掴めって事か)


 まんまと策にはまった雅樹は皿に並んだ湯気の上がるロールキャベツと睡蓮の面差しを見た。確かに似ている、瓜二つだ。


(木蓮が、ロールキャベツ)


 あの木蓮がここ迄芸達者であるとは到底思えない。


(ーーーはぁ、勘弁してくれよ)


 両家の両親は睡蓮推しでその勢いは止まらず睡蓮もその気になっている。このまま中途半端な付き合いを続ければいつか睡蓮を傷付けてしまう。


(木蓮の気持ちも分かんねえし)


 雅樹は袋のねずみの心持になった。


「それでは失礼致します」

「また遊びに来てね」

「気を遣わなくても良いですから手ぶらでいらして下さい」

「ありがとうございます」


バタン


 食後の珈琲を飲み終える頃には21:00を過ぎていた。必然の流れで睡蓮は雅樹が運転する車の助手席に座った。雨は本降りでワイパーが激しく左右に動き、ボンネットで水煙を挙げる雨は煩かった。


(ーーー)


 然し乍ら車内は静まり返っていた。


(ーーーなに話して良いか分かんねえ)


 木蓮とは勝手が違う瓜二つの顔を持つ睡蓮。その対処に困った雅樹は思わずため息を漏らしてしまった。


「あ、すみません!今日は仕事が忙しくて!」

「そんな時に送って頂いて、すみません」

「いえ」

「ありがとうございます」

「はい」


 そしてまた会話が途切れる。テールランプの流れに乗っている時は誤魔化せるが赤信号で停車した途端に気まずくなる。


(確かにそうかもしんねぇけど)


 同僚は「見合い結婚なんてそんなもの」「条件が揃った相手を段々好きになるんだよ」と照れ臭い顔で笑った。それはそれで幸せなのだろう。


(そんなタイプの人間も居るよな)


 睡蓮は如何にも見合いで結婚するタイプの女性だと思った。


(あいつはーー違うよな)


 そこで視線に気が付いた。睡蓮の目がまるでお見通しと言わんばかりに雅樹の横顔を見つめていた。


「ど、どうしましたか」

「雅樹さん」


 それは今まで聞いた事の無い力強い声だった。


「私、諦めませんから」

「なにをですか」

「私、雅樹さんと結婚するつもりでいます」


 前言撤回、睡蓮も実は木蓮のように力強い側面を隠し持っていた。


「は、はい」

「私、負けませんから」

「誰にですか」

「木蓮です」

「え」


 叶家の門構えが見えて来た。この坂は道幅が狭く車で上る事が出来ない。ブレーキペダルを踏んだ雅樹は睡蓮の予想外の言葉に焦りながら、後部座席から取り出した雨傘を広げた。助手席のドアを開けるとベージュのパンプスが車から降りた。


「今日はありがとうございました、ロールキャベツ美味しかったです」

「ーーーはい」

「送って行きます」


 その時、雅樹の背広を掴み爪先立ちをした睡蓮が、その唇を奪った。もしかしたら雅樹の唇に付いていた赤色が木蓮の口紅の跡だと気付いていたのかも知れない。


「ーーーえっ」

「私、負けませんから!」


 そう言うと睡蓮は雨の中を走り去った。雅樹は呆然としてその背中を見送った。


「ーーー勘弁してくれよ」


 ただ大人しく両親の言いつけを守り、周囲に流されているだけだと思っていた睡蓮の豹変で見合い結婚がまるで恋愛の三角関係の程を成して来た。

 睡蓮は雅樹を想い、雅樹は木蓮に恋焦がれ、木蓮は、木蓮はーー雅樹はアクセルペダルを踏んだ。


 玄関の引き戸を開けた睡蓮のワンピースは色を変え、髪の毛からは雨の雫が滴った。急に走り出した為か持病の気管支喘息の咳が出始め、背中を丸めながらパンプスを脱ぐと酷く咽せた。


「おかえり」


 逆光の中、木蓮が心配そうな表情で立っていた。


「睡蓮、あんたなにしてんの!ずぶ濡れで咳も出てるじゃない!」

「ーーーただいま」


 睡蓮は木蓮の目を見ずに通り過ぎ、洗面所で手を洗い始めた。


「ほら、これ!」


 木蓮は睡蓮にタオルと携帯気管支喘息用吸入器ネフライザーを手渡そうとしたが、睡蓮の視線は木蓮の唇に向けられた。


(ーーーラメ入りのアプリコットレッド)


 それは二人お揃いで購入した口紅だった。睡蓮は雅樹の口元を彩った赤色が飴の色では無い事に瞬時に気が付いた。だからこそ雅樹の唇を奪う無謀な振る舞いに出たのだ。


「ありがとう」

「どうしたの、なにかあったの。しかもこんな遅くまで何処に行ってたの」

「木蓮、お母さんみたいよ」

「だって、今までこんな事無かったじゃない」


 睡蓮の目は木蓮に挑むような厳しいものになった。


「雅樹さんのお宅よ」

「ーーーえ」

「雅樹さんとお義父さま、お義母さまとお食事して来たの」

「あいつんち」

「私の作ったロールキャベツを美味しいってお代わりしてくれたわ」

「そうなんだ」

「楽しかったわ」

「良かったじゃない」


 睡蓮はそれに返事もせずに階段を上って行った。木蓮は睡蓮の表情に今までとは異なるものを感じ戸惑った。


(睡蓮があいつの家に行った)


 雅樹の家で食事をして来たと言う誇らしげな睡蓮。しかも雅樹の両親を交えて自身が持参した料理に舌鼓を打ったと言う。


(ーーーあいつ、私と結婚したいって言ったのに)


 木蓮は睡蓮と雅樹の縁談を応援すると言いながら、心の何処かで雅樹の言葉や深紅の指輪に甘んじていた自分にようやく気が付いた。矢張やはり自分も雅樹に好意を寄せていたのだ。


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