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第2話 ヴェネチアンガラス

 気管支喘息のがある睡蓮は一度も外で働いた事がない所謂いわゆる、深窓の令嬢。自宅で家事手伝いをし茶道花道の手習い事を極めていた。


「睡蓮、顔色悪いわよ。お医者さんに行ったの?」

「やっぱりそうかしら」

「お嫁さんになるんでしょ、体調管理はしっかりしなきゃ駄目よ」

「ありがとう木蓮」


 片や木蓮は至って健康。短期大学部卒業後、父親が経営する製薬会社に勤めている。社長令嬢ともなれば秘書か人事部勤務かと想像するところだが気質的に「狭苦しい業務は息が詰まる!」と営業部に所属し日々励んでいる。


「木蓮!おまえまた営業部の飲み会に参加したそうだな!」

「なに、なんか問題でもあるの」

「おまえはウチの跡取りなんだぞ!いい加減落ち着きなさい!」

「えーーーー、なんで跡取りなの」

「睡蓮が和田に嫁ぐんだ!誰が叶を継ぐと思ってるんだ!」

「えーーーー」





 そして叶家と和田家の見合いから半月後、雅樹は出張先のイタリアから帰国した。そこで自身の意向とは、叶 睡蓮との縁談が進んでいた事に愕然とした。


「父さん、どうしてそんな勝手な事をしたんだ!」

「おまえだってどちらの娘でも構わないと言っていたじゃないか」


「それは写真を見た時の話だろう!」


「雅樹さん、彼方あちらの睡蓮さんはウチ和田に相応しい方よ」

「相応しい、相応しいってなにが!」

「お料理もお上手だし、お茶もお花も、それに雅樹さんの事を気に入って下さっている様だし。良いお話だと思うけれど」


 睡蓮が雅樹に一目惚れしたと言い放った木蓮。


(ーーー俺は)


 木蓮を想う自身の感情を持て余しながら雅樹はイタリア土産を手に叶の家を訪ねた。


 イタリア出張の土産はヴェネチアンガラスのアクセサリーに決めた。


(私と睡蓮を見比べているんでしょう!)


 木蓮の言葉がいつまでも耳に残った。彼女はおどけた表情で不満を溢したが、実は常日頃から睡蓮と比較される鬱積した思いが遂に爆発したのではないか。雅樹は木蓮の悲痛な叫びを聞いた様な気がした。


「木蓮らしいものが良いな」


 雅樹は視察の隙間時間が出来ると橋のたもとに並んだ露天商の店を見て周った。





ピンポーン


 叶家は和田家よりも歴史が古く和風家屋の見事な庭園が雅樹を出迎えた。門構えのすぐ脇には赤松、その奥には立派な樹木が白い花を咲かせていた。それは夜目にランタンが灯っている様で一際目を引いた。


「こんばんは、夜分遅くに失礼します」

「まぁ、雅樹さん。睡蓮、睡蓮、雅樹さんよ!」


 叶家では既に雅樹の妻に収まる娘は睡蓮と決まっている様子だった。


「雅樹さん、イタリアからお帰りになられたんですね」

「はい」

「お元気そうで、良かった」

「睡蓮さんは身体のお加減は如何ですか」

「喘息が少し、でも大丈夫です」


 雅樹が睡蓮への土産として購入したのは既製品のヴェネチアンガラスのペンダントだった。


「これ、イタリアのお土産です」


 睡蓮は包装紙のテープを恐る恐る剥がすと白い小箱の蓋をそっと開けた。


「ーーー!綺麗!」


 それは湖水に咲く睡蓮の花に相応しく、かぎりなく透明に近い青だった。


「気に入って頂けましたか」

「はい!」

「どれどれ、これは美しい!チェーンもK18、18金じゃないか」


「睡蓮、雅樹さんに付けて頂いたら?」

「ーーーえ、恥ずかしい」


 そう言ってテーブルに視線を落とした伏目がちな黒曜石の瞳は木蓮に瓜二つで雅樹は戸惑った。


「なにを恥ずかしがっているの。旦那さまになるんでしょう?」

「恥ずかしい」


「僕も、僕もそれはまだちょっと」


「そうですな、母さんは気が早いな!」

「ごめんなさい私、調子に乗ってしまったわ」


 そこで雅樹は木蓮の姿が無い事を尋ねた。


「木蓮、木蓮さんはご不在ですか」

「あぁーー、木蓮は営業部のコンパだと出掛けて行ってしまったよ」


「営業部、営業部ですか?」

「あぁ、話していなかったかな。木蓮はウチの営業部で働いてるんだ」

「営業部」

「秘書は性に合わんらしい」


「あーーーーすみません、コンパとは」

「あぁ、将来の婿を探しに行くと息巻いて出掛けて行きました」

「コンパ」

「困ったもんです」

「コンパ、ですか」


 雅樹の怪訝そうな顔に慌てた父親は睡蓮の頭を撫でた。


「あぁ、雅樹くん安心して下さい」

「はい?」

「睡蓮は何処に出しても恥ずかしくない娘ですから」

「はい」

「可愛がってやって下さい」

「はい」


 木蓮はこうやって幼い頃から比較されて来たのかと思うと雅樹の胸は痛んだ。


「それでは失礼致します」

「また気兼ねなくいらして下さい」

「ありがとうございます」

「ほら、睡蓮、お見送りして」

「ーーーーはい」


 雅樹を見送る睡蓮はその三歩後ろを歩いた。確かにこれならば和田家の家風にもすぐに馴染めるだろう。


(ーーーなんだか緊張するな)


 玄関の引き戸を開けると湿気を帯びた夜が芳しく纏わり付いた。


「睡蓮さん、この匂いはなんでしょうか」

「あぁ、泰山木たいさんぼくです」


 先程ランタンの様だと見惚れた樹は泰山木だった。睡蓮に案内され白い花を見上げるとそれは木蓮の花に良く似ていた。


「木蓮の様ですね」

「似ていますね、あぁ、そうだ!」


 睡蓮は可愛らしく微笑むと泰山木の幹を愛おしそうに撫でた。


「小さい頃、落ちたんです」

「落ちた、睡蓮さんが!?」

「まさか!木蓮です。木蓮がこの樹に登ってしょっ中落ちていました」

「それは凄いですね」

「その度にお手伝いの田中さんが木蓮を抱えて病院に走っていました」

「ーーーさすが」

「え?」

「いいえ、なんでもありません」


 雅樹は泰山木を見上げ、よじ登る幼な子を思い描き失笑した。


「それでは、また」

「はい」


 睡蓮は名残惜しそうな面持ちだったが雅樹は会釈し叶家を後にした。


(ーーーふぅ、疲れた)


 ポケットの中で車の鍵を弄りながら坂道を下ると、レンガ畳みを上って来る女性の影が見えた。


 遠目にも分かる白いカッターシャツにジーンズ、木蓮だった。ほろ酔い気分なのか足元が覚束ない。木蓮も雅樹に気が付いたのか片手を挙げて「よっ!」と挨拶した。


(ーーー見合い相手に「よっ!」はないだろうが)


 はぁと大きなため息を吐いた雅樹は手招きをした。


「なによ、イタリアのパスタは美味しかった?」

「あぁ、オリーブオイルと塩しかないパスタだったけどな」

「ご愁傷さま」


 雅樹は木蓮のロイヤルブラウンの髪に手を伸ばして臭いを嗅いだ。


「おまえ、煙草吸うのか」

「吸わないわよ、居酒屋で付いたのよ」

「居酒屋ぁ?」

「そう、コンパだったの」


 雅樹の眉間に皺が寄った。


「なに、般若みたいな顔してるわよ」

「いい男は居たのか」

「あーーーー、それがアンポンタンみたいなボンボンばっかで帰って来たわ」

「そりゃ残念だったな」

「本当に!2,800円返して欲しいわ!」


 そこで木蓮は右手を差し出した。


「はい!」

「なんだよ、その手は」

「お土産あるでしょ!」

「あーーーーあるある、ちょっと待ってろ」


 雅樹はスーツの胸ポケットからクラフト紙の小袋を出した。それはテープで留められただけの質素なものだった。


「ーーーなによこれ」

「だから土産だよ」

「しょぼっつ!」

「探したんだよ、おまえに似合いそうなもの」

「ふーーーん」


 ベリっと封を開けると中には深紅の丸い物が入っていた。暗がりでは良く見えないがガラス細工である事は確かだ。


「早く見てみろよ」

「なに急がせてんのよ」

「それ、ガラス職人が作っただから」

「ーーーーへぇ」

「へぇじゃねえよ、感動しろよ」


 雅樹は木蓮から小袋を奪い取るとその左手を取った。


「なに」

「黙ってろ」


 それはシンプルだが木蓮の花弁がひとひら浮かんだガラスの指輪だった。雅樹はそれを木蓮の左の薬指に嵌めた。


「なっ、なに勝手な事してんのよ!」


 雅樹は木蓮を抱き締めると煙草臭いロイヤルブラウンの髪へと顔を埋めた。


「くせぇ」

「ちょ」

「もうコンパなんか行くな」

「なに、誘われたら行くわよ」

「行かないでくれ」


 木蓮の顔が赤らんだのは焼酎のせいでは無い、心臓が跳ね上がったのも日本酒のせいでは無かった。それだけ伝えると雅樹は「おやすみ」と後ろ手に手を振り街路樹の向こうに消えた。


「ガラスの指輪なんて、割れちゃうじゃない」


 木蓮はカッターシャツのポケットに指輪を入れた。


 翌日、睡蓮がクリーニング店に依頼する洗濯物を仕分けしている時の事だった。シルクの白いカッターシャツを手に取ると胸ポケットに異物感があった。


「木蓮のシャツだわ、また、もう!」


 木蓮はカッターシャツやスカートのポケットに仕事で使ったクリップや硬貨を入れる癖があった。クリーニング店からは「シルクは傷みやすい生地ですからポケットの中身は取り出して下さい」と何度も注意を受けている。


「ごめんなさい」


 その度に睡蓮が頭を下げなければならなかった。


「はぁーーー、学習能力を疑うわ」


 しかも今日は少し大きめで赤い色が透けて見えた。「まさか朱肉か認印!」睡蓮が慌ててそれを取り出すとガラスの塊だった。


「ーーーなに、これ」


 深紅のリングに薄く白い花弁が象られた、瞬時にそれが雅樹からのイタリア土産である事を悟った。指先で摘んで太陽の光にかざして見ると文字が彫られていた。


for mokuren masaki


「木蓮へ」


 これは明らかに雅樹が選び、雅樹がイタリア土産として日本に持ち帰った物で間違いなかった。


「雅樹」


 木蓮は出掛けていた。


「ーーーいつ渡したの」


 睡蓮の中に黒い沁みがポタリと落ちた瞬間だった。


「ただいまーー!田上さん、今夜のご飯なーにーー!」


 呑気な声で木蓮が帰宅した。木蓮の指輪を見つけた睡蓮はすっかり気落ちしてしまい、リビングのソファでクッションを抱えて夕暮れを迎えた。


「木蓮さん、木蓮さん」

「なに、そんなちっさい声で」

「シーーーーー!」


 玄関先でパンプスを揃えていると田上さんが肩を叩いた。


「どうしたのよ」

「睡蓮さんの様子が変です」

「変なのはいつもの事じゃない」


 どこか浮世離れした睡蓮は、時々、的外れな事を口にする。


「その、天然惚てんねんほうけとはちょっと」

「ーーーー違うの?」

「ーーーーはい」


 キッチンからリビングを覗くと確かに微妙な面持ちでソファに身を委ねている。


「生理痛かしら」

「知りませんよ!とにかく今夜はハンバーグですからね!睡蓮さんをなんとかして下さい。お願いしましたよ!」

「うおーーー!ハンバーグ!」

「頼みましたよ!」

「ふわーーい」


 気のない返事をした木蓮がリビングに足を踏み入れると見覚えのある物がリビングテーブルの上に置かれていた。


「ーーーっあ!」

「おかえり木蓮、なにがあっなの」

「あぁぁ、また出し忘れた!ごめーーーん!」

「ーーーー」

「なに、クリーニング屋に怒られちゃった?」

「その前に見つけた」

「そう、良かった!」


 あっけらかんとした木蓮の態度に苛立ちを隠せない睡蓮はクッションを床に叩き付けて立ち上がった。その剣幕に木蓮と田上は驚きを隠せなかった。


「ど、どうしたのよ!」


 睡蓮は目を見開き両手で拳を作った。


「なぜなの!」

「な、なにがよ」

「どうして木蓮へのお土産がこれなの!」

「こ、これってーーーそれの事?」

「そうよ!」


 木蓮は睡蓮の形相に目の前でなにが起きているのか皆目分からず、二人の遣り取りを物陰から見守る田上さんは手に汗を握った。


「睡蓮のお土産はK18ヴェネチアンガラスのペンダントだってお父さんが大騒ぎしてたわよ!」

「K18がなによ!」


「ブランド品でしょ、凄いじゃない」

「ブランドがなによ!」


「睡蓮、どうしたのよ、あんたおかしいわよ」

「おかしいのは木蓮よ!」

「どういう事」

「これよ!」


 睡蓮は深紅の指輪を指で摘むと木蓮の手のひらに乗せた。


「ーーーこのおもちゃの指輪がどうしたのよ」

「おもちゃじゃないわ!」

「屋台で買ったガラスの指輪よ」

「よく見て!」


 木蓮は言われるまま指輪をシーリングライトに翳して見た。


for mokuren masaki


「ーーーなに、なによこれ」

「それが雅樹さんの本当の気持ちじゃないの!」

「まさか」


「木蓮はどうなの!」

「どうって」


「雅樹さんとはいつ会ったの!」

「それはーーー昨夜、そこの坂で偶然会っただけよ」

「昨夜、昨夜、昨夜って、そんな事言わなかったじゃない!」

「言う必要ないと思っていただけよ」


「私に隠れて二人で会っているんじゃないの!?」

「睡蓮!あんたなに言ってんのか分かってんの!?」


 睡蓮は目尻に涙を浮かべながら言葉にしてはならない事を口走ってしまった。


「同じ顔に生まれなきゃ良かった!」

「どう言う意味よ」

「いつも、いつも、いつも、いつも木蓮ばかり可愛がられる!」

「そんな訳ないじゃない!」

「こんな顔、嫌い!」


 踵を返し階段を駆け上がる睡蓮の足音が遠ざかる。木蓮が床に転がったクッションをソファに並べているとフライ返しを持った田上さんがリビングに顔を出した。


「木蓮さん、大丈夫ですか」


 大きなため息が漏れた。


「睡蓮の方が可愛がられているじゃない」


 目頭が熱くなりソファに涙が零れ落ちた。その晩、睡蓮は部屋から出て来なかった。

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