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第3話 指輪

 睡蓮と木蓮が衝突している同時刻、叶夫妻と雅樹は料亭の座敷で酒を酌み交わしていた。雅樹はお猪口から溢れる思いを飲み干し、二人の前で平伏した。


「雅樹くん、いきなりどうしたんだ」

「叶さん、申し訳ありません」

「どうしたんだ」


 雅樹は顔を挙げると叶 蓮二かのうれんじの目を凝視した。


「この度の縁談ですが一旦、白紙にして頂けませんか」

「どう言う事ですか」


 雅樹は大きく息を吸い込み深く吐いた。


「睡蓮さん、木蓮さんとお会いした後、僕はイタリアに出張していました」

「そうだね」

「その間、父から叶さんへ睡蓮さんとの縁談について話があったと思いますがそこに僕の意思は有りません」


 夫と雅樹の顔を交互に見た叶 美咲かのうみさきは顔色を変えた。


「す、睡蓮と結婚する気はないと仰るんですか」

「睡蓮はもう雅樹くんと結婚するつもりで居るんだよ、それを今更」

「申し訳ありません」

「この話はお父さん方はご存知なのか」

「いえ、僕の一存です」


 雅樹はもう一度頭を下げた。


「僕は木蓮さんに指輪を渡しました」

「ゆ、指輪」

「イタリア土産です」

「ーーーみ、土産ですか」


 蓮二と美咲は土産物だと聞き安堵したが、雅樹の次の言葉に仰天した。


「僕は木蓮さんとお付き合いさせて頂きたいと思っています」

「木蓮、木蓮ですか」

「木蓮さんはその気ではないと思います」

「なら、このまま睡蓮と!」

「ーーー一旦、白紙にさせて下さい、お願いします」


 雅樹は畳に指を突き、深く深く頭を下げた。



 この一件を知った和田 雅次わだまさつぐ百合ゆりは激昂した。


「雅樹、これはどう言う事だ!」

「雅樹さん、先ずは仲人さんにご相談するものよ」

「相談もなにもあちらさんは睡蓮さんで、と仰っていたんだぞ!」


 初めは下を向いていた雅樹だったが一方的な両親の言い分に、思わず椅子から立ち上がった。


「俺の気持ちはどうなるんだ!」

「雅樹さんはどちらのお嬢さんが良かったの、まさか木蓮さん」

「そうだよ、あいつと居ると楽しいんだよ!」

「あいつ、おまえたちはそういった仲なのか!」

「な訳ないだろ!知り合ってまだ一ヶ月だぞ!」


 夫と息子の激しい言い争いに戸惑った百合は雅樹の腕を握った。


「雅樹さん、落ち着いて頂戴。和田の家に相応しいのは睡蓮さんよ。親類縁者のお付き合いもある事だし、作法の心得がない木蓮さんは苦労すると思うわ」

「ーーーそうかもしれないけれど」


「しかも木蓮さんにはその気が無いんだろう」

「まだ分からない!」

「おまえはもう29、来年には30歳になるんだぞ!高校生みたいに駄々をこねて恥ずかしく無いのか!」

「ーーーー」

「雅樹さん、お父さんの気持ちも汲んであげて」


 和田雅次には兄が居た。跡継ぎは兄と決まっていたが自動車事故で急逝。外国資本の企業が進出する中、和田医療事務機器株式会社を一身に背負った雅次は会社存続の為に東奔西走していた。そこで叶製薬株式会社との提携は大きな後ろ盾となる。


「とにかく、この縁談は続けるぞ」

「俺は木蓮が良い!」

「睡蓮さんも木蓮さんも同じ顔じゃないか、それで充分だろう!」


 頭に血が昇った雅樹はテーブルを握り拳で叩いた。


「あの二人は別の人間だ!同じじゃ無い!」

「お父さん、それは言い過ぎよ、雅樹さんに謝って頂戴、ね」

「百合が甘やかすからこんな事になるんだ!」

「まあ、酷い!」

「とにかく、叶家との縁談は続ける!おまえに選択肢はない!もう寝る!」


 雅次はリビングの扉を激しく閉めた。取り残された二人は気不味く、柱時計の振り子が規則的に揺れた。


「雅樹さん、結婚は楽しいだけのものじゃ無いのよ」

「分かってるよ」

「木蓮さんも気立の良いお嬢さんなのは分かるわ。けれど、あぁ、困ったわ」

「ーーーごめん」


 父親の怒りも母親の悩みも良く解る。然し乍ら雅樹の心は、深紅の指輪を木蓮の左手の薬指に嵌めた時から決まっていた。



 叶家の座敷机には白いレースのハンカチに包まれた深紅の指輪があった。そこには泣き腫らした目の睡蓮、気不味い顔の木蓮、困惑した蓮二と美咲の姿があった。


「ーーー睡蓮、雅樹くんから」

「あなた」

「黙っていてもいつか分かる事だ」

「そうですけれど」


 その雰囲気からなにかを察した睡蓮の頬に涙が伝った。


「睡蓮、今回の縁談は一旦白紙にして欲しいと話があった」

「白紙にってどう言う事よ!」


 睡蓮の心情を代弁するかの様に木蓮が父親に詰め寄った。


「お、おまえが原因だ」

「はぁーーーー!?私が原因ってどういう事よ!」

「これだ」


 ハンカチを捲ると深紅のガラスの指輪が光を弾いていた。


「ーーーこのおもちゃの指輪がどうしたのよ」

「雅樹くんが、おまえと付き合いたいと言って来た」

「はぁ!?睡蓮があいつの婚約者でしょう!?」

「あいつ、あいつと呼び合う仲なのか」

「まさか!鳥肌が立つわ!」


 睡蓮が木蓮のシャツを掴んだ。


「良いの、婚約者だなんて結納も済ませていないし」

「ーーーだって!」

「雅樹さんの気持ちを聞いた事は無いわ」

「そうかもしれないけれど、睡蓮はあいつと結婚したいんでしょ!」

「ーーーしたいわ」

「なら!」


 その視線は深紅のヴェネチアンガラスの指輪へと注がれた。


「お見合いの後、雅樹さんはイタリアに出張に行ったわ」

「そうね」

「その間に私が雅樹さんとお付き合いする事になったわ」

「そうね」

「雅樹さんはその事を知らなかったと思うの」

「えええ、まさか」

「その証拠がこれよ」


 蓮二が指輪を電灯の明かりに透かすと文字が浮かび上がった。


for mokuren masaki


「ただの土産物だろう」

「でもあなた、名前が彫られているわ」

「すっ、睡蓮への土産はあんな立派なネックレスだったじゃないか」

「お金で買えない物もあるわ」

「ーーー」

「雅樹さんが好きなのは木蓮よ」


 木蓮はその指輪を取り上げるとポケットに入れた。


「睡蓮が自分からなにかを欲しいなんて言うのは生まれて初めてじゃない!」

「雅樹さんは物じゃないわ」

「でも欲しいんでしょ!結婚したいんでしょ!」


 睡蓮は小さく頷いた。


「あいつと話をつけて来るから!お父さんもあんな若造の言う事に振り回されないで!しっかりして!」

「そ、そうか」

「木蓮、良いの?」

「なにが」


 双子だからこそ感じるものがある。木蓮も雅樹に好意を抱いていると睡蓮は直感した。


 叶製薬株式会社のエントランスロビー、ソファにその姿があった。エレベーターのランプが一階を示し、中から一人の女性が出て来た。


「よっ!」

「ーーーよっ」


 白いブラウスにグレーのベスト濃灰のタイトスカート、会社の制服を着た木蓮は、多少上品で落ち着いて見えた。


「すげぇな、女に見えるわ」

「あんたも相変わらずギャップ萌えって感じね」

「おまえもな」


「ーーーで、勤務中に呼び出されるとか、すっごく迷惑なんですけれど!」

「悪ぃ、連絡方法知らないしな」

「仲人にでも聞けば?」

「そんなん聞けるかよ」

「なんでよ、「婚約者の妹の連絡先を教えて下さい」って聞けばあのクソ禿げ親父が教えてくれるわよ」

「相変わらず酷ぇな」

「これが通常運転ですから!」


 やはり雅樹の心は木蓮に傾いていた。この打てば響くテンポの良さ、親しみやすく気軽な雰囲気に癒される。仕事から帰宅した時、迎えてくれる相手は木蓮しか考えられなかった。


「その婚約者の話なんだけど」

「あんた馬鹿なの、この場所でその話する?」

「そうだな。退勤後、何処かで飯でも食おうぜ」


 睡蓮の涙が頭を過った。


「あんたと茶も飯もないわ、今度はないってこの前言ったでしょ」

「なら缶コーヒー一本だけ付き合えよ」

「ーーーあんたの奢りなら」

「貧乏くさっ」


 睡蓮に「任せなさいよ」と言い切ったものの、木蓮の中にもほんの一欠片ひとかけらだが和田雅樹との心踊る一日が残っていた。もし睡蓮が雅樹に一目惚れしなければ、もし自分も正装で見合いの席に着いていればと「もし、もし」と仮定する自分がいる。


(ーーーでも、睡蓮が)


 ワークチェアに腰掛けた木蓮は大きなため息を吐いた。


 待ち合わせ場所はポプラ並木が続く片側三車線の大通りから右に折れた緑地公園だ。金沢駅発石川県庁行きのバスに乗車、流れる車窓を眺め停留所を三つ過ぎた所で降車ボタンを押した。


<次、停まります>


 車内アナウンスに心臓が跳ねた。このままバス停を素通りした方が良いのではないだろうか、これから和田雅樹と缶コーヒーを一本飲む時間すら睡蓮を裏切っているような錯覚に陥る。


(睡蓮との縁談をこのまま進めて欲しい、そう言うだけよ)


プシュー


 バスのタラップを降りると灯台躑躅どうだんつつじの生垣の向こうに夕焼け空が広がった。芝生広場には大型遊具があり、母親と戯れる子どもの姿があった。


(これなら二人きりになる事はなさそうね)


 ストッキングのくるぶしに芝生の感触が残る。丁度向かいのコンビニエンスストアから白いポリエチレン袋を手に、木蓮が座るベンチへと歩いてくる雅樹の笑顔が見えた。


(呑気なもんだわ)


 木蓮は知らない。


「お疲れさん」


 雅樹がどれ程までに自身に恋焦がれているか。


「あんたもね」

「無糖、微糖、カフェオレ、紅茶、どれが良い」

「なに、ドリンクバーでもすんの」

「どれだよ」

「じゃ、紅茶」


 ペットボトルを手渡されたものの、そのキャップを開ける気にはなれなかった。


「それで、話ってなに」

「あーーー、婚約者云々うんぬんについて」

「それが議題なの」

「まぁ、そんな感じかな」

「そんなの簡単よ、睡蓮と結婚すればなんの問題もないわ」

「なんだよそれ」


 木蓮はポケットから深紅のヴェネチアンガラスの指輪を取り出しベンチに置いた。


「これは貰えないわ」

「どうして」

「名前が入っているなんて気が付かなかったから受け取ったのよ」

「知らなかったんだ」

「なにがよ」

「まさか出張に行っている間に縁談が進むなんて思ってもいなかった」

「どのみち睡蓮が選ばれていたわよ」

「なぜ」

「和田家に相応しいからよ」


 膝に片肘を突いた雅樹は眉間に皺を寄せてため息を吐いた。


「おまえまでそれかよ、相応しい、相応しい、なにが相応しいんだよ!俺の気持ちはどうなるんだ!」

「そんな大きな声出さないでよ」


 雅樹の怒鳴り声に子どもは怯え、母親の手を引いて公園を後にした。


(ーーー二人きりになっちゃったじゃない)


 木蓮はベンチから離れると大型遊具のブランコに腰を下ろした。パンプスで地面を蹴り上げ、両腕を前後に揺らした。


「おい、木蓮、危ないぞ」

「こんなの平気よ!」


 それは高く、飛んで行ってしまうのではないかと思える程の速さで空を仰いだ。睡蓮の事がなければ、家柄の事がなければ、そう考えると胸が熱くなった。


「おい、良い加減にしろよ!おまえもう子どもじゃないんだぞ!」

「どういう意味よ!」

「おまえ泰山木から落ちたんだろ!」

「知ってたの!」

「その歳でブランコから落ちたとか洒落になんねぇぞ!」

「ーーーそうよ!こんなガサツな女が和田の嫁になれる筈ないじゃない!」


 その時、面持ちが変わった雅樹の手がブランコの鎖を強く握り締め、危うく木蓮は前のめりに二枚の板から落ちそうになった。


「ちょっ、危ないじゃーーー!」


 一瞬の出来事だった。屈み込んだ雅樹が木蓮の唇に口付けた。何が起こったのか訳が分からなかった木蓮は顔を赤らめてブランコから立ち上がった。


「な、なに考えてんのよ!」

「俺は木蓮と結婚したい!睡蓮じゃない!おまえが良いんだよ!」

「そんなの誰も許さない!」

「許さなくても良い!」


「睡蓮を裏切るなんて出来ない!」

「おまえ、本当はどうしたいんだよ!」

「分からない!」


 ベンチのショルダーバッグを手に取ると大通りに向かって走った。


「おい!待てって!」

「紅茶、ごちそうさま!」


 木蓮は街を流すタクシーに手を挙げ後部座席へと乗り込んだ。ベンチに置き去りにした深紅の指輪、和田雅樹を突き離すつもりがそれは脆くも崩れた。


(ーーーどうしたら良いの)


 木蓮の心はブランコの様に揺らぎ始めた。

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