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第7話 亀裂

 これまで菜月はハンギングチェアで揺られ赤毛のアンの本を読み微睡まどろむ事はあっても賢治が帰宅するまでにはマンションに戻っていた。けれど今日はそんな気分になれなかった。そこで多摩さんに夕食に誘われありがたく頂戴する事にした。


(もうこの際、賢治さんに叱られても良いわ!)


 賢治は菜月が綾野の家の母屋に通うことを良しとしていなかった。


「菜月さんとお夕飯を頂くなんて久しぶりね」

「うん」


 同じ食卓を囲んだ ゆき は嬉しそうに微笑んだ。茶の間のテーブルに並べられたフクラギの煮付け、天ぷら、南瓜かぼちゃと小豆のいとこ煮は菜月の好物だ。美味しそうに箸を付ける娘に ゆき が話し掛けた。


「今度は賢治さんといらっしゃい」


 菜月の表情が強張った。その瞬間を見過ごさなかった ゆき は怪訝そうな顔をして菜月を凝視した。


「どうしたの?なにかあったの?」

「あ、あの」


 焦る菜月、そこで 湊 が助け舟を出した。


「ちょっと喧嘩しちゃったんだよね」

「まぁ・・・・・!」

「そうなの、お洗濯物に買い物のレシートが入っていて、賢治さんのお気に入りの靴下が紙屑だらけになって」

「あぁ、なんだそんな事!ちょっと心配しちゃったわ」

「大丈夫、新しい靴下買ったら許してくれたから」

「菜月さん、気をつけなさいね」

「うん」


 菜月と湊は安堵の溜め息を吐いた。それでも気不味い菜月は箸を置いた。


「賢治さんが待っていると思うからもう帰るね」

「そうね、あまり遅いと心配するでしょうし、 湊 、マンションまで送りなさい」

「うん、分かった。菜月、支度して」


 すると多摩たまさんが「はい、はい、はい、はい」とタッパーウェアに南瓜と小豆といとこ煮を取り分け紙袋に入れて持たせてくれた。


「ありがとう」

「お口に合うか分かりませんが、賢治さんにどうぞ」

「いつもありがとう、きっと喜ぶわ」

「はい、はい」


 ガレージに賢治のアルファードは停まっていなかった。定時で退社、その後どこで何をしているのか定かではないがせめて今日くらいはマンションに帰っていて欲しいと 湊 は心からそう思った。


「雨、すごく降ってるね」

「昼間はあんなに晴れていたのにね」

「うん」


 そう力無く答える助手席の横顔はフロントガラスに打ち付けては流れ落ちる雨の雫を見つめていた。離婚を決意したと強く意志を表明した菜月だったが、やはり気落ちしている。


(このまま菜月を帰しても良いんだろうか)


 いっそ、両親に訳を話して綾野の家に身を寄せてはどうだろうか。湊は 考えあぐねた。


「あっ!湊!信号!」


 心配事に気を取られた 湊 は赤信号を見落とす寸前だった。慌ててブレーキを踏む右足に力を込めた。突然の衝撃にフロントグラスに飛び出した菜月の後頭部はヘッドレストに打ち付けられた。


「だっ!大丈夫!?」

「うん、びっくりした! 湊 らしくないよ!気を付けてね!」

「ごめん」


 湊は菜月に酷く叱られた。雨は止むことを知らない。


「さぁ、着いたよ準備して」

「うん」


 マンションのエントランスには激しい雨風が吹き付けていた。運転席を降りた 湊 は置き傘を開き菜月に差し掛けた。


「湊、背中が濡れてるよ」

「良いんだよ、菜月が濡れなければ」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 エレベーターホールで上階へのボタンを押した。上昇するエレベーターの中のは消えていた。消臭クリーニング作業が入ったのだろう。仕事が早い。


カチャン


 菜月は「お茶でも飲んでいかない?」と 湊 を誘ったが、玄関先に雨に濡れた黒い革靴を見付け「また来るから」とそれを断った。


「そう?じゃあおやすみなさい」

「おやすみ」

「送ってくれてありがとう」

「どういたしまして」


 作り笑顔の 湊 は踵を返すとエレベーターホールに向かった。その拳は強く握られていた。


(今、賢治さんの顔を見たら殴ってしまいそうだ)


 菜月の胸中を思うと胸が痛んだ。



 「ただいま」



 菜月は恐る恐るリビングに声を掛けた。中から不機嫌そうな返事がありドアを開けるとソファで腕組みをする賢治の姿があった。厳しい顔付きをしている。


「綾野の家に行っていたのか」

「ちょっと用事があって」

「俺のメシはどうした」


 手に持っていた紙袋をダイニングテーブルに置いた菜月はタッパーウェアを賢治に見せた。


南瓜かぼちゃと小豆の煮物、多摩さんが持たせてくれたの」

「煮物」

「美味しいのよ」


 賢治はソファから立ち上がると菜月の手からタッパーウェアを取り上げ中身の匂いを嗅いだ。


「なんだよこれ、婆あの臭いがするじゃないか」

「なに、なにその言い方・・・」

「こんなもの食えねぇよ」


 そう吐き捨てると同時に、賢治はタッパーウェアごとゴミ箱に捨て、菜月は驚きのあまりに言葉を失った。


「綾野の家の”みんなで仲良くしてます”ってのが気持ち悪いんだよ」

「気持ち悪いって、酷くない?」

「菜月、タクシーで帰って来たのか?」


 なぜか賢治は 湊 の事を忌み嫌った。


「湊に送ってもらったの」

「お前ら仲良すぎるんだよ!その歳で気味が悪いんだよ!」

「そんな、だって弟なのよ?」

「義理の弟だろ!血が繋がってないんだろ!裏で何やってんのか分かったもんじゃねぇ!」

「賢治さん、あなた何を言ってるのか分かってるの!?」


 賢治は不倫という”人の道に外れた”事をしている。その負い目を打ち消すかのように菜月と 湊 の関係に自分自身を投影した。


「菜月!もう綾野の家には行くな!」

「どうして!?」


 それは不倫の発覚を恐れたからだ。


「湊 とも会うな!この部屋にも入れるな!」


 これは 湊 に対する嫉妬心だ。


「そんな事、出来ない!」


 すると顔色を変えた賢治は手元にあったダスターを掴むと振りかぶって菜月に叩き付けた。


「もう寝る!約束は守れ!分かったな!」


 菜月は呆然となり気が付くと携帯電話を握っていた。



湊、会いたい


       どうしたの

         既読


会った時話す



       分かった

 明日の昼休みに行くよ

        既読



おやすみなさい



    おやすみ菜月

        既読



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