黒い瓦の総檜造りの和風家屋。母屋の離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の
「
軒先に揺れるハンギングチェアはゆりかごのように揺れ菜月を眠りに誘った。その手のひらの下には
「・・・・菜月」
「菜月、ねぇ、菜月?」
柔らかな日差しに菜月の顔を覗き込むのは血の繋がらない弟の
「菜月、起きて」
湊の切れ長の目は菜月を愛おしそうに見下ろし、その薄い唇は繰り返し義姉の名前を耳元で囁いた。
「起きて、菜月。もう帰る時間だよ」
菜月が目を
(・・・・・・・・)
湊はハンギングチェアを揺らさないようにそっと菜月へと屈み込んだ。もう少し、あと少しで互いの唇が触れる距離で菜月の息遣いを感じた。
「・・・・あ、湊?」
菜月の閉じた長いまつ毛がゆっくりと開き、湊は弾かれるように顔を離した。
「なに、どうしたの?」
「もうすぐ夕方だよ?
「あっ!もうそんな時間?!」
賢治とは菜月の夫だ。それは二年前の事だった。いつまでも義弟の湊に甘え離れようとしない菜月に業を煮やした
「菜月、もう湊、湊と言う歳でもないだろう。いい加減観念して見合い話を受けたら如何だ」
「お父さん」
菜月は慌てた。
「今度の相手は条件も学歴も申し分ない。見た目も悪く無いだろう」
「そうだけど」
菜月はこの縁談を断ろうと必死だった。
「
「うん」
然し乍ら、郷士の口調は有無を言わさぬ物言いだった。
「会うだけ会ってみてくれ」
「・・・・・分かりました」
菜月は父親から是非にと勧められ、見合いの席で将来の夫となる
「はじめまして、四島賢治です」
「綾野菜月です」
「お綺麗ですね」
「そんな事・・・ありません」
「いえいえ、本当の事ですよ。こんな美しい方と結婚出来るなんて幸せ者です。親父に感謝しないと」
そしてこの婚姻は
菜月はこれまで何度か見合いをしたがどの男性とも縁付かなかった。それは相手の男性を、義弟の湊と
「菜月さん」
「なに、お母さん、どうしたの思い詰めた顔して」
「四島さんとのお見合いなんだけど」
今回の見合い相手の賢治については母親の
「そんな勝手な事は許さん!」
結局、父親の
「菜月さん、今後ともよろしく」
「はい。こちらこそよろしくお願い致します」」
賢治は高学歴で上背もあり見栄えも良かった。しかも一級建築士の資格も持っていた。申し分のない相手だった。
(・・・いつか好きになれるだろう)
見合いから結納、入籍、結婚式と粛々と事は進んだ。賢治は婿養子となり、
(・・・きっと好きになれるだろう)
然し乍ら新婚旅行先での初めての夜、菜月は賢治に対して違和感を感じた。賢治の指先が肌に触れた瞬間に鳥肌が立ったのだ。それは
「菜月さん、大切にするよ」
「は、はい」
これまで口付けさえした事のない相手と一夜を共に過ごしたが初めてのセックスは一方的で激しい痛みを伴った。ベッドのシーツには赤い染みが出来た。
「なに、菜月さんは
「・・・・はい」
「なんだか得した気分」
「そうですか」
鼻歌混じりに煙草を吸い始めた賢治の後ろ姿に愛情は
(こんな事を言う人を本当に愛せるの?)
それでも菜月は良き妻であろうと慣れない家事に勤しみ毎朝笑顔で賢治を会社へと送り出した。
「菜月、今夜はいいか?」
「ごめんなさい。今日は・・・・・生理なの」
「なんだ、それなら仕方ないな!おやすみ!」
「おやすみなさい」
ただ
(これって、セックスレス、よね)
今後、綾野家の跡継ぎをと両親に望まれた時、手を繋ぐ事さえ難しい賢治とどうすれば良いと言うのだろう。
そして賢治は順調とは言い難い二人の結婚生活の発覚を恐れてか菜月が綾野の家に入り浸りする事を好ましく思っていなかった。
「寝過ごしちゃった」
ハンギングチェアに寄りかかっていた菜月の顔は青ざめた。賢治が帰宅してもおかしくない時間だ。
「・・・・どうしよう」
「マンションまで車で送って行くから早く支度して」
「うん、ありがとう、いつもごめんね」
それでも菜月と賢治は
(賢治さん、か)
湊には賢治に対し少し気掛かりな事があった。先週の金曜日の事だ。賢治の黒いフラッグシップミニバン、アルファードが自宅マンションを通り過ぎ深夜の繁華街へと走り去ったのを見掛けたのだ。
(こんな時間にどこへ行ったんだ)
見間違いだろう、新婚一年目で浮気をするなんて有り得ない。湊は最悪の事態を打ち消し平静を装っていたが、菜月の言葉にそれは
「湊、聞いて!」
「な、なに・・・・どうしたの急に」
湊のBMWの助手席に乗り込んだ菜月が珍しく声を荒げた。
「なんだか最近、賢治さんから変な匂いがするの!」
「どんな匂いなの?」
「ムスク系の柔軟剤だと思う!もう頭が痛くなる!」
(まさか・・・・香水?)
「嫌いな匂いなの!賢治さんは笑ったけど重要案件よ!」
「賢治さんはなんて言ったの?」
「会社の事務の女の子の柔軟剤だよって!」
「そう」
賢治は湊と同じ綾野住宅で働いている。会社内に柔軟剤の匂いを
(これは、まさか)
湊は指先に力を入れて車のハンドルを握った。
「あっ!もう帰ってる!どうしよう」
「そんなに怯えなくても大丈夫でしょ?」
「だって凄く機嫌が悪くなるの」
賢治の黒いアルファードが駐車場に停まっている事を目視した菜月は慌てて助手性のドアを開けた。
「湊、送ってくれてありがとう!」
「お礼は良いから、早く行って!」
「うん!おやすみなさい!」
「おやすみ」
ゆりかごのようなハンギングチェアに揺られる菜月。菜月の涙は何よりも重い。菜月を悲しませる事は絶対に許さない。湊はアクセルを