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第2話 招かざる訪問者

 菜月は恨めしく鈍色の空を眺めた。雨の日は綾野の家のハンギングチェアに揺られて本を読む事は出来ない。クッションを抱えてソファに座りながらガラス窓に打ち付ける雨の雫を眺め、丸い壁掛け時計の秒針の音に耳を傾けた。


「あ、クッキー」


 賢治がテレビを見ながら食べこぼしたクッキーの欠片がカーペットの上にポロポロと落ちているのを見つけてしまった。菜月はそれを一分ほど眺め、渋々掃除機を取り出した。


 エントランスのインターフォンが鳴った。


「ん?」


 時計の針は午前十時、来客の予定もない。宅配便の配達時間でもない。菜月は首を傾げ乍らインターフォンのモニターに指を伸ばした。


「はい、綾野です」


 モニターに映し出された人影は少し俯き加減で表情が読み取れなかったが黒髪のワンレングス、女性のようだった。


「どちらさまでしょうか」

如月きさらぎと申します」

「きさ、らぎさんですか?」

「はい。綾野賢治さんはご在宅でしょうか?」

「いえ、夫は会社ですが」

「そうですか、忘れ物をお届けに参りました」


 手には大判の茶封筒が見えた。あぁ、なるほど、会社関係の方なのだろうとエントランスの施錠を解除してウロウロしながら待っていると、玄関ポーチのインターフォンが鳴った。


「はい」

「如月です」


 目を凝らしてモニターを確認すると先程の女性だった。鍵を開けるとそこには真っ直ぐな烏の濡れ羽色の黒髪が揺れた。


「お忙しいところ申し訳ありません」

「いえ、こちらこそ、忘れ物、ありがとうございます。」

「私、こういう者です」


 その女性は茶封筒を脇に挟むとショルダーバッグから名刺入れを取り出し、両手で淡い桜色の名刺を差し出した。


きさらぎ広告代理店

如月倫子きさらぎりんこ


「如月さん」

「はい、には日頃からお世話になっております」

「は、はい」

「それで、こちらをお忘れになられたのでお持ち致しました」

「はい」


 如月倫子からは仕事を機敏にこなす秘書といった印象を受けた。然し乍ら白いカッターシャツの胸元のボタンは深く開き、腰のラインに沿った膝丈の黒いタイトスカートや黒いハイヒール、深紅の口紅は仕事関係者というには女性の色香が漂いどこか違和感を感じた。


「これ、お忘れになられたので」

「あ、はい。ありがとう・・・・ござ・・・います?」


 差し出された茶封筒は大きさの割にとても軽く、底の方に膨らみがあった。そして封筒は糊付けもされておらず、まるでその中を見ろと言わんばかりだった。如月倫子は「それでは失礼致します」と軽く会釈をしたが、口元に笑みを浮かべながら菜月の足元から頭のてっぺんまで舐めるように見た。


(な、なに?)


 その仕草がなんとも薄気味が悪く如月倫子が背中を向けたと同時にドアノブに手を掛けて玄関扉を閉め施錠をした。


「なに、あの人、なに、なに、何なの」


 茶封筒をリビングテーブルに置こうと屈んだ瞬間、賢治のスーツに染みついた柔軟剤の匂いがした


「んーーんーーー」


 鼻を摘みながら顔を近付けてみると、それが柔軟剤の匂いではない事はすぐに分かった。香水の香りだった。


(何が、入っているの)


 恐る恐る封を開いて中を覗いてみると見覚えのあるものが入っていた。茶封筒を逆さまにするとそれはフローリングの床に落ちた。菜月が賢治の35歳の誕生日に贈ったカルバンクラインのハンカチだった。


(これ、どういう意味?)


 携帯電話を手に持ち賢治のLINEトーク画面を開いた。指先がどくどくと脈打つのが分かった。如月倫子の訪問になんの意味があるのか賢治に直接確認する事も憚られた。


「湊に相談しよう」


 菜月は湊にLINEメッセージを送信した。


 青々とした桜並木が続く犀川の水面には鮎釣りの竿が大きく首を垂れている。御影大橋の河川敷には小型犬のリードに引かれる高齢夫婦の仲睦まじい姿、穏やかで幸せな象徴の傍に菜月が住む五階建てマンション、グラン御影みかげがあった。


 何事にものんびりとして世間知らずの菜月を憂いた郷士父親が自社物件の分譲マンションを婿養子である賢治と菜月の為にあてがった。ただしマンションの名義人はとなっている。防犯対策は二段階でマンションエントランスと住居玄関ポーチのモニターで訪問者を確認する事が出来る。また交番まで歩いて二分、如何に郷士が菜月を案じているかが伺えた。


 それにも関わらず菜月は見知らぬ女性を玄関先に招き入れていた。幾ら防犯対策が万全でも、住んでいる当の本人がこれでは全く意味が無い。


ピンポーン


「はーーーい、綾野です!」


 早速これだ。エントランスのインターホン越しに叱咤する。


「菜月!相手が名乗る前に苗字を言わない!」

「湊!いらっしゃい!」

「菜月、聞いてるの!?」


 返事も何もなくエントランスの自動扉がカチッと音を立て、スーーっと滑らかな動きで左右に開いた。後方を確認、誰も着いて来ていない。湊の黒い革靴はエレベーターホールへと向かった。最上階から降りて来るエレベーターの黄色いランプ。総ガラス張りのロビーには天井から流れ落ちるシャンデリア、車寄せには太さの揃った青竹が横一列に植樹されている。



ポーーーーン


 湊は上昇する箱の中に違和感を感じた。以前、このような匂いは無かった。


(趣味が悪いな、消臭剤メンテナンスを依頼するか)


ポーーーーン


 辰巳石の廊下、右に折れて左から三番目が菜月が暮らす503号室だ。最上階という事もありベランダには日当たりの良い南向きの小さな芝生の庭も付いている。贅沢の限りだ。それでも綾野の屋敷の庭には到底及ばない。


ピンポーーーン


ガチャ


 ほらこれだ。インターホンの対応もない。これは注意しなければならない。


「菜月!」

「湊!」


 注意する間もなく菜月は湊の首に縋り付いて来た。主人の帰りを待つ大型犬のようだ。湊は嬉しさに口元を綻ばせた次の瞬間不機嫌になった。菜月が賢治にもこのような姿を見せると思うと腹が立った。


「菜月、ちょっとおいで」

「なに?」


 菜月をソファに座らせて懇々と防犯対策を説こうとリビングに向かいその背中を押した時、湊の鼻先にエレベーターの中で嗅いだ臭いが鼻をついた。


「ちょっとお風呂場を見てもいい?」

「良いけど、お掃除下手だとか言わないでよね!」

「うん、分かった」


 湊は風呂場で鼻を嗅いだ。ドラム型洗濯機の隣に置かれた衣類用洗剤、柔軟剤、浴室のボディソープ、ヘアケア製品、洗顔料、違う、これではない。


「どうしたの?」

「ううん、すごいね。すぐに貸し出せそうなくらい綺麗だよ」

「本当!?」

「賃貸物件部長が言うんだから間違いないよ」


 綾野住宅株式会社は親族経営だ。湊は26歳の若さで部長職に就いている。同級生からは羨ましがられるが賃貸物件はクレームやメンテナンスなど煩わしい事も多々ある。


「家事、相変わらず頑張っているんだね」

「そうよ!外に働きに行かないんだもの、これが私のお仕事だから!」

「偉いね菜月は」


 ワンピースの袖を捲って見せる菜月の頭を湊がポンポンと優しく叩いた。


「・・・・・・」

「どうしたの」

「賢治さんも褒めてくれたらもっと頑張れるのに」

「褒めてくれないの?」

「全然、それに最近はあまり喋らないの」


 菜月は家政婦ではないのだ。湊は苛立ちを感じた。菜月は日頃の賢治の態度に不満が鬱積しているようだ。それはまた後ほど愚痴に付き合う事にしようともう一度頭をポンポンと優しく叩いたが、それよりも気に掛かるのは香りだ。


 湊は鼻で大きく息を吸いながら辺りを見回した。その匂いは長い廊下の奥へと続いている。その先は夫婦の寝室で立ち入る事に気が引けたが取り敢えず了承が得られるかどうか尋ねてみた。


「菜月、寝室の中だけど見ても良いかな?」

「ん、良いよ?」


 その軽い返事には少々拍子抜けしたがあれこれと深く考えない菜月らしかった。寝室の扉を開けるとキングサイズのベッドが視界に入り湊の眉間にはシワが寄った。ここで、と想像するだけで胸糞が悪く二つ仲良く並んでいる枕を掴んでベランダから道路に叩き付けたい衝動に駆られた。


(くそ!くそ、くそ、くそ!)


 菜月の手前平静を装った湊は壁一面のウオークインクローゼットへと視線を移した。


(・・・・・ん、この匂い)


 匂う。ウオークインクローゼットの格子の隙間からと手招きされているような感覚に陥った。


「菜月、良いかい開けるよ?」

「うん、いいよ」


 然し乍ら、湊はウオークインクローゼットの引き戸を開ける事を躊躇った。


(・・・・・あぁ、ここだ)


 微かだが確かに匂う。


「菜月、柔軟剤ってこの匂い?」

「・・・・・・・あ、これだ」

「なんですぐに気が付かないの」

「・・・・・・」


 夫を信用し切っている菜月は賢治が不貞を働いているとは夢にも思わなかったのだろう。


「これじゃない、これも違う」


 湊はパイプに掛かった木製のハンガーを一個一個揺らしながら収納された衣類を手に取ってその匂いの在処を探した。ごくりと喉が鳴る。


(僕の思い過ごしであって欲しい)


 賢治のスーツの袖を持ち上げて一枚、また一枚と鼻に近付けて匂いを確認する。そしてその手が止まった。


(・・・これだ)


 黒いジャケットから白檀びゃくだんの匂いがした。


 これは柔軟剤でなければお香でも無い。淫靡な女性を感じさせる白檀の香水だ。


「賢治さんが帰って来るといつもこの匂いがするの?」

「うん、時々。時々すごく匂いがキツくて頭が痛くなるの」

「時々って、何月、何日、何曜日」

「んーーーー覚えてないなぁ」


 これだ。


 湊は疑問に思った。


「菜月、頭が痛くなるのに、よくこの部屋で眠れるね」

「ん?もう一つのお部屋で寝てるの」

「あぁなるほど」


 寝室の廊下を挟んで向かいにゲストルームがある。菜月はここ数ヶ月の間、クイーンサイズのベッドに一人で寝ているらしい。


(・・・菜月、僕がその隣に寝たいよ)


 不貞を働く賢治にとって最高の環境だった。菜月に勘繰られる事もなく不倫相手と連絡を取り合う事など雑作もない。湊が菜月の置かれている現状に消化不良を起こしているととんでもない言葉がこぼれ落ちた。


「その突然来た女の人なんだけどね」

「うん」

「賢治さんの忘れ物を持って来たの」

「忘れ物」

「そう、この匂いが付いたハンカチなんだけど、湊、どう思う?」


(確定じゃないか)


 湊は菜月の手を引いてリビングへと向かった。


 湊は菜月にソファに座るように勧めたが「紅茶、淹れるから待っていて」とキッチンの戸棚を開けた。細く白い指がしなやかな動きでティーカップを取り出しベージュのケトルから湯気が漂った。


(綺麗だ)


 東向きの小窓から差し込む陽の光が菜月の絹糸のような薄茶の髪を透かし、無造作にまとめたうなじの後毛おくれげに見惚れる。



※民法734条1項ただし書き

「ただし、養子と養方の傍系血族との間ではこの限りではない」



 大学を卒業した湊は7341を目にした瞬間、十四年の間蓋をしていた恋情が溢れ出した。


 例外的に連れ子同士の婚姻は民法上何の問題なく認められていた。成人した今も菜月と湊は言葉にはしないが互いに惹かれ合っていた。「どうしても湊と比べてしまうの」菜月の縁談が流れる度に、父親に二人の結婚を承諾して欲しいと湊は口を開き掛けその都度思い止まった。


(僕は意気地がないな)


 母親も湊の稚拙な行動を見透かして咎めるような目で「やめなさい、駄目よ」と首を横に振った。四島工業賢治と菜月の婚姻は郷士が強く望んでおり、湊も ゆき もこれまで世話になった郷士に逆らうような真似は出来なかった。


(でも、賢治さんが不倫をしていたのだとすれば、僕は)


 湊は菜月の幸せを願う一方で、賢治の不貞を望んでいる自分の愚かさを恥じた。


「はい、お待たせしました。お熱いうちにどうぞ」

「あ、うん」

「あっ!」


 要らぬ考えに気を取られていた湊はティーカップの持ち手に指先を引っ掛けてしまった。白いカップソーサーに溢れる琥珀色、菜月の指先を庇おうと伸ばした手が触れた。視線が絡み合う。


「う、うわっち!」

「あ、ごめん!今、布巾持ってくるね!」

「ありがとう、ごめんね!」

「これで冷やして!」


 保冷剤を手に戻ってきた菜月は湊の左腕を心配そうに見つめ赤く変色した皮膚にそっと触れた。湊は火傷とは異なるヒリヒリとした痛みを感じた。


(このまま抱きしめてしまいたい)

「大丈夫?痛くない?」

「うん」


 菜月がダスターでフローリングの床に溢れた紅茶を拭き取る。湊は菜月を背中から抱きしめたい衝動を理性で拭い取った。


「静かだね」

「うん」


 このマンションは特に静かだ。御影大橋の交差点が赤信号で車の流れが停まると犀川のせせらぎが聞こえてくる。

 丸い壁掛け時計が秒針を進め、ケトルの湯がしゅんしゅんと沸いた。紅茶の香りが漂いリビングテーブルにティーカップが置かれた。


「ふぅ」


 菜月が湊の隣に腰掛けた。触れる肩が熱い。


「ごめんなさい」

「良いよ、気にしないで」

「火傷、大丈夫」

「うん」


 菜月の桜色の指先がティーカップを持ち、ぽってりとした唇がそれにふぅふぅと息を吹きかけていた。湊はその一挙一動を目に焼き付けた。


「菜月」

「うん?」

「その女の人は何を持って来たの?」

「あれ」

「あれ?」


 菜月はベランダの物干し竿を指差した。そのハンカチはハンガーピンチに留められハタハタと風になびいている。湊はため息を吐きながらベランダの網戸を開けサンダルを履いてそのハンカチを手に取った。


「なんで、洗濯なんてしたの」

「んーーーーー、臭かったから」

「ーーーーーっ!」


 鼻先で嗅いでみると何となく白檀の香りがしないでもないが、ご丁寧な事に菜月の好きなローズ系の柔軟剤の匂いがした。


「菜月」

「うん?」

「良いかい?よく聞いて、落ち着いて聞いてね」

「うん」


 二人で大きく息を吸った。


「菜月、賢治さんは浮気、というか多分不倫をしている」

「ふ、不倫?まさか!」

「じゃぁ、なぜその女の人は賢治さんのハンカチを届けに来たと思う?」

「確かに」

「変だと思わなかった?」

「なんだか嫌な感じだった」

「でしょう?普通、自宅にハンカチを届けたりはしないよ」


 菜月は戸惑った顔でハンカチを見た。


「賢治さんに女の人が来た事は話した?」

「話してない」

「ハンカチは見せた?」

「見せてない」

「分かった」


 湊は壁掛けのカレンダーを指差した。


「その女の人はいつ来たの?」

「一昨日」

「月曜日だね」

「うん」

「その前に賢治さんが夜遅くに帰ったのはいつ?」

「んーーーーー」

「いつ」

「先週の水曜日と、金曜日」


(先週の水曜日は会議の後に懇親会があった)


「水曜日は何時ごろに帰って来た?」

「ドラマ見た後だから、22:00くらい」


(大丈夫、その日のお開きは21:30、自宅に直接帰宅、と)


「金曜日は何時に帰って来た?」

「分かんない」

「は?」

「先に寝て良いよって言うから、寝ちゃった」

「・・・・・・何時に」

「23:30頃かな?」


「菜月、その日だよ。」

「金曜日?」

「その女の人と会っていたのは」

「どうしてそう思うのよ!」

「その日、会合は無いよ。」

「うん」

「しかも金曜日はノー残業デーで、皆んな定時で退社しているよ」

「本当?」

「僕が嘘をついてどうするの」


 菜月の表情がみるみる曇っていった。


 湊は落ち込む菜月の横顔を眺めながら、賢治への嫌悪感と怒りが込み上げて来るのを感じた。


(このまま曖昧にするなんて絶対に許さない。)


 菜月が望めば協議離婚、慰謝料請求、財産はびた一文渡さない。何より父親が許す筈が無かった。四島工業賢治の実家にも愚かな息子の尻拭いをして貰わなければならない。


「菜月、思い詰めないで」

「私が悪いのかな」

「どうして」

「笑わないでね」

「うん」


 菜月は顔を両手で覆った。


「私、賢治さんと、その」

「その、どうしたの喧嘩でもしたの」

「ううん、その、せ」

「せ?」

「セッ・・・・出来ないの」

「そうなの!」


 湊は嬉しさで思わず語尾が上向きになってしまった。


「なに、嬉しいの」

「だって」


「私、湊以外の男の人と手を繋ぐと鳥肌が立っちゃうの」

「鳥肌」

「気持ち悪くて仕方ないの」


 菜月の心と身体は二人が指を繋いだ幼い日、灯台躑躅どうだんつつじの垣根で時計の針を止めていた。「孫の顔が見たい」父親も55歳、そろそろ綾野住宅株式会社の後継となる孫を望んでいる。そんな両親がこの事実を知ったらどう判断を下すのだろう。湊は一筋の希望の光が見えたような気がした。


「それが不貞を働いても良い理由にはならないよ」

「そうかな」

「性の不一致が原因なら菜月と離婚してからその女性と付き合うべきだ」

「そう、よね。」

「そうだよ」

「そう、そうよね!」


 菜月はコクコクと頷いた。


(このまま賢治を奈落の底へ突き落としてやる)



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