黒い瓦の総檜造りの和風家屋。母屋の離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の
「
軒先に揺れるハンギングチェアはゆりかごのように揺れて菜月を眠りに誘い、その手には臙脂色の装丁が擦り切れた赤毛のアンがあった。
「菜月」
菜月の頬は薄紅色、淡い茶色の眉は横に真っ直ぐと伸び、長いまつ毛の二重まぶたに琥珀色の瞳、鼻筋は通り、唇はぽってりと愛らしい。薄茶の巻き毛のそれはまるで美しいセルロイド人形のようだった。
「菜月」
午後の日差しに彼女の顔を覗き込むのは、菜月と血の繋がらない弟の
「菜月、起きて」
湊は面長で色白、眉は黒くアーチを描き、切長で一重の黒い眼差しを優しく見せる。鼻筋はスッと伸び、薄い口元、髪は黒く緩やかなカーブを描き襟足は短く刈り込まれている。
「起きて、菜月、もう帰る時間だよ」
綾野菜月と湊の出会いは遡ること十四年前。綾野住宅株式会社を経営する
「菜月、父さんのお友だちだ」
「友だち?」
「そうだ」
菜月が父親から「友だち」だと紹介された人物は ゆき という名前の36歳の女性だった。色白で優しげな面持ち、上品な薄紫の着物を着ていた。
その後、菜月が中学二年生に上がったばかりの四月に ゆき は一人の男性を連れて綾野の家に遊びに来た。
「こんにちは菜月さん」
「 ゆき さん、こんにちは、その男の人は誰?」
ゆき はその男性の肩に手を添えながらお辞儀をするようにと促し、彼はポリポリと頭を掻きながら頭をぺこりと下げた。
「私の息子の湊、よろしくね」
「湊、さん」
背の高い彼はあどけない中にも落ち着きがあり、白いカッターシャツにジーンズがとても似合っていた。
(うわ、かっこいい)
菜月はまずその整った顔立ちに釘付けになり、胸のときめきを感じた。
「菜月さん、湊はまだ小学六年生なの」
「初めまして」
「あ、はじめ・・・まして」
「湊くん」
「うん」
まさか目の前の男性が年下でまだ小学生だと知った菜月は驚きを隠せなかった。また、湊も菜月の透き通るような美しさに心惹かれひと目で恋に落ちた。
「ねぇ、湊くん」
「湊でいいよ」
「湊って綺麗な名前ね。何か意味があるの?」
「父さんが海上自衛隊に勤めていたんだ」
「そうなんだ」
「うん、ガンで死んじゃったんだけどね」
「そう」
「菜月ちゃんも可愛い名前だね」
「菜月でいいよ」
「中学生なのに」
「湊の方が中学生みたいよ」
「そう?」
「うん」
友人同士だという大人たちに連れ立って菜月と湊は毎週のように一緒に出掛けた。桜並木を歩き、遊園地で笑い、海辺で戯れて花火を見上げた。そして綾野の家の庭先に咲く
「ちょっと恥ずかしいね」
「うん」
それはほんの触れるほどの微かなものだったが胸は高鳴り手のひらは汗を握り頬は紅葉のように真っ赤だった。
「菜月、クリスマスにパーティをするよ」
「クリスマスパーティ!」
郷士からその事を聞いた菜月は慌てて湊に知らせた。
「湊、湊!聞いた?クリスマスにパーティするんだって!」
「うん、母さんもそう言ってた!」
嬉しさに思わず語尾が跳ね上がった。
「ねぇ湊、プレゼント交換しよう」
「それいいね!」
「楽しみ」
「プレゼントかぁ菜月には、うーーーーーん、何が良いかな」
「みっ、湊!それはまだ言わないで!」
「内緒?」
「そう、内緒」
湊はお小遣いを握って本屋へと走った。
「これ、プレゼントでお願いします」
「はい。何色のリボンにしますか?」
「あっ!その赤と緑のリボンで!」
大好きな女の子に贈る本を手に取った湊は会計時にラッピングを頼んだ。その声は上擦り、額に汗をする程に緊張した。
「菜月、喜んでくれるかな」
ところが楽しいはずのクリスマスパーティで菜月と湊は失恋をした。その日のパーティは郷士と ゆき の入籍を披露する場だった。郷士は思春期の菜月や湊の心境を考えると二人の再婚をその時まで言い出せないでいた。
「どうして」
菜月と湊の顔色が変わった。
「どうして言ってくれなかったの!」
「菜月、すまん」
「どうして!」
ポロポロと涙を溢した菜月は自室の襖を閉めた。湊はその背中を追い、座敷で郷士はため息を吐いた。
「どうして」
「菜月」
「私と湊、きょうだいになっちゃうの?」
「菜月」
縁側の向こうでは白い雪がハラハラと舞い落ちていた。涙声になった二人は向き合うとプレゼントを贈り合った。
「菜月は本が好きだから」
「これ」
菜月は湊から手渡された包みの赤と緑のリボンを震える手でほどいた。
「赤毛のアン」
菜月はその臙脂色の装丁の本を抱き締めてまた涙を流した。ひとしきり泣いた菜月は小さな箱を取り出して中から一本のネックレスを取り出した。銀色の鎖の先には青い
「これは船の
「おもり」
「そう、船を港に繋いでおく為の錘、湊に似合うと思って」
目尻の涙を拭いながら菜月は湊の首にその鎖を掛けて最後の口付けをした。
そのクリスマスの夜から十四年、年齢を重ねた二人は世間一般な姉と弟として距離を置くようになっていた。けれど繋いだ指先、触れた唇の温かさと優しさは今も二人の心に残る。
「菜月」
湊はゆりかごのようなハンギングチェアを揺らさないようにそっと菜月へとかがみ込んだ。唇が触れる距離、息遣いを感じる。菜月の閉じた長いまつ毛がゆっくりと開いた。
「あ、湊」
「もう夕方だよ。
「あっ!忘れてた!」
賢治さんとは菜月の夫だ。
ーーーーー 遡ること一年
一年前に菜月は見合い結婚をした。
「菜月、もう湊、湊と言う歳でもないだろう。いい加減観念して見合い話を受けたら如何だ」
「お父さん」
「今度の相手は条件も学歴も申し分ない。見た目も悪く無いだろう」
「そうだけど」
「
「うん」
「会うだけ会ってみてくれ」
「分かりました」
菜月は取引先の
ハンギングチェアに寄りかかっていた菜月の顔が青ざめた。賢治は菜月が実家に入り浸る事を好ましく思っていない。
「賢治さんに怒られない?」
「ど、どうしよう」
「わかった。マンションまで車で送って行くから支度して」
「うん、ありがとう」
それでも菜月と賢治は仲睦まじい新婚夫婦に見えた。
ただひとつ湊には賢治について少し気掛かりな事がある。半月ほど前、湊は深夜の繁華街で賢治に良く似た背格好の中年男性を見掛けた。その後ろ姿は自宅マンションとは真逆の薄暗い住宅街へと消えた。
(他人の空似だろう。新婚一年目で浮気なんて)
そう脳裏で疑念を打ち消した矢先、車の助手席に座った菜月が聞き捨てならない言葉を口にした。
「湊、聞いて!」
「なに」
その剣幕に思わず振り返る。
「賢治さんから変な匂いがするの」
「どんな」
「ムスク系の柔軟剤だと思う、もう頭が痛くなる!」
(まさか・・・・香水?)
「賢治さんは何か言ってた?」
「会社の女の子から匂いが移ったんじゃないかって」
「そう」
ゆりかごのようなハンギングチェアに揺られる菜月、彼女の涙は何よりも重い。菜月を悲しませる事は絶対に許さない。
湊は指先に力を入れて車のハンドルを握った。
賢治の黒いアルファードが駐車場に停まっているのを確認した菜月は慌てて湊の車から降りた。
「湊、送ってくれてありがとう!」
「早く行って!」
「うん!おやすみなさい!」
「おやすみ」
菜月は父親から是非にと勧められた見合いの席で夫となる
菜月はこれまで何回か見合いをしたがどの男性とも縁付かなかった。それは相手の男性を湊と
四島工業との見合いに至っては、母親の ゆき は「菜月さんが気乗りしないのなら止めても良いのよ」とまで言ってくれたが父親に押し切られた形で縁談はまとまった。
「菜月さん、今後ともよろしく」
「はい」
賢治は高学歴で身長も高く見栄えも良かった。一級建築士の資格も持っていた。申し分のない相手だった。
(いつか好きになれるだろう)
見合いから結納、入籍、結婚式と粛々と事は進み、綾野家は四島賢治を婿養子として迎え、菜月はその妻となった。
(きっと好きになれるだろう)
然し乍ら新婚旅行先での初めての夜、菜月は賢治に対して違和感を感じた。賢治の指先が肌に触れた瞬間に鳥肌が立った。怖気と表現しても差し支えなかった。これまで口付けさえした事がなかった相手と一夜を過ごしたのだがその行為は一方的で激しい痛みを伴い甘い言葉もなかった。菜月と賢治は無言で衣類を身に付けた。
(本当に賢治さんの事を愛せるようになるのだろうか)
新婚旅行から帰国した菜月は良き妻であろうと慣れない家事に勤しみ毎朝笑顔で賢治を送り出した。ただ夜の営みは鳥肌が立ち苦痛でしかなく、また賢治も気が乗らないらしくそれは一年間で数える程しかなかった。
(賢治さんとは相性が悪いのかな)
けれど普段は優しく、焦がしたハンバーグも「旨いよ、大丈夫」と笑顔で頷いてくれる。
(私、不感症なのかもしれない)
今後、綾野家の跡継ぎを望んだ時に手を繋ぐ事さえ難しい相手とどうすれば良いと言うのだろう。
(私、男性恐怖症なのかな)
けれど湊は違った。子どもの頃、湊と手を繋いでも口付けを交わしても気持ちは悪い事など一切無かった。
(賢治さんを湊を比べてしまうから駄目なのかな)
菜月はため息を吐き乍らエレベーターのボタンを押した。